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2015年5月9日土曜日

我慢の限界までもう少し

皐月、五月である。

五月の別名、皐月(さつき)は、田植えをする月の早苗月(さなへつき)が由来となっており、新暦では6〜7月頃にあたるらしい。

ということは、今週あたりはまだ卯月(うづき)の続き、みたいなもんだろう。

負の連鎖の方も未だ健在であり、先日などはジムニー(JB32)のキーシリンダー不具合で始動不能になったと、家族からの支援要請もあった。

まあ、一家揃ってボロ車、もとい古い車ばかりに乗ってりゃ、そんなハプニングも珍しくないわけで、原因は主にすり減った上に相当歪んでいたマスターキーで、無理な力を加えたことによるものだ。

これなど、古いモノを大事に使う気構えさえあれば、もう少し先送りにできた問題のようにも思うのだが、あの連中にそれを望んでも仕方あるまい。

ただ、部品さえあればさほど深刻な故障でもないはずだが、こちらも既に生産終了からかなりの年数が経過しており、そう簡単ではないらしい。

当面、代替品が手に入るまでは予備キーを差しっ放しにして、すり減ったマスターキーはドアロックのみで使うよう指示したのだが、さてさてどうなることやら。

2015年4月29日水曜日

原付撮影行、其の弐

昨年、7月以来の原付撮影行である。

といっても、今までにも何度か原付では出掛けているのだが、とりたてて公開するほどの写真が無かっただけで、これが正味の二回目というわけでもない。

今月の前半は、あまり天気にも恵まれず定点観測以外の写真は、せいぜい桜ぐらいしか撮れていない。非力な原付と、もっと非力な撮影者の組合せでは、その撮影行も極々近場に限られるのは致し方ないところである。

せめて、単車の方にもうちょっとパワーがあったら、多少なりとも写真の方にも良い影響が期待できるのではないかと考え、今月の締めとして画策したのである。

今回は、少し大きめな原付を調達して山陰方面にまで足を延ばそうかと考えのだが、結果的には以前の「スーパーいなばと因美線」と同様、乗り鉄気分遠足気分の反省も何処へやらで、またもや撮影もそっちのけでツーリングに終始するという為体である。

2015年4月9日木曜日

耐用年数

全てのモノには、寿命がある。

ここでいうモノとは、いわゆる生きモノではなく機械モノのことであり、生命の神秘などについて語るつもりは更々ない。

一般的に耐用年数と呼ばれるものだが、身近にある物でも、皿やガラスコップの類いにまで言及すれば、アクシデントによる破損でもない限り、数千年〜数万年単位のモノさえある。(たぶん)

その機能という点においては、多少欠けていたとしても実用性にそれほど影響はないので、耐用年数は永遠といっても良いぐらいだ。

だが、機械モノの場合は単純な機能に留まらないので、設計上の基本的な機能が失われるまでが、耐用年数といえるだろう。

我家の旧型 Mac や NeXT のように、設計上の機能が失われても尚、置物として存在し続けるモノも無いではない。ま、捨てるに捨てられないタダのゴミと等価でしかないのだが、…。

2013年12月18日水曜日

伯備線遠征:其の弐

前回に続き、伯備線遠征シリーズの「布原〜備中神代編」である。

長距離の移動を伴う撮影というのは、時間的、状況的な制限もあって、必ずしも思い通りの撮影が出来るとは限らない。

一箇所を目的地とした場合と違って、気紛れ要素が多く面白くはあるのだが、結果としての写真は満足できるものが少ない。

よほど気に入った被写体に巡り合えれば、その後の計画を大幅に変更することもあるが、そんなことは滅多にない。

たいていは行き当たりばったりとはいえ、大して目的地などないにもかかわらず、ハイお次、ハイお次とばかりにスケジュールを消化しているだけのパターンに陥りやすい。

ま、それはそれでその過程も楽しめれば何も問題はないし、あまり綿密な計画を立ててもその通りになることの方が少ないので、今回も気分次第の雑談と余談を絡めた、超適当な撮影行である。

第7高梁川橋梁の惨劇に泣きながら、井倉を後にして布原信号所へ向かった。結局、その場でシャッター切ったのは例の DP3M5721 のたった一枚のみであり、そそくさと退散の体であったことが情けない。

新見から布原までの山道も、所々にアイスパッチがある程度で、懸念された積雪は四駆に切替えるほどではない。

林道から、谷あいにある布原駅に降りていく道の途中で、やくもの俯瞰撮影を行った。それから、一応定番となっている布原駅前の橋の上で、ジムニーの記念撮影をしてみるが、天気がいまいちスッキリしない。

背景の緑も褐色になり、絵的にはやはり新緑の季節の方が様になる。定点観測とまではいかないものの、これも季節モノということで、訪れるたびに行っている定例行事である。

前回の緑の中のミニのように、背景に溶け込んだかのようにも見える絵的な一体感がないのは、季節のせいだけではない。無機質なアルミの地肌丸出しで、やたら四角いボディは、車単体では決して嫌いではないのだが、客観的に見て自然の中にあると、どうしても浮いてしまう。

その点、50〜60年代の丸みを持ったミニは、その辺に適当に転がしておいてもあまり違和感がないように思えるのは、贔屓目に過ぎるだろうか。

いっそ、軍用車のようなオリーブドラブか、はたまたカモフラージュカラーならば、…いやいや、それはちょっと方向が違うだろう。

布原から備中神代までの道は、曲がりくねっているが、途中のトンネル以外、道幅自体はさほど狭くはない。周りの山々はうっすらと雪景色で、時折強く吹く風に飛ばされた雪が視界を妨げる。

グーグルマップで見ると、この辺りも伯備線に沿っており、いかにも撮影に向いたポジションが多くありそうに見える。

しかし、道路と線路の高低差が結構あったり、雑草や立ち木または民家にブロックされたりで、布原までの行程、またその先の備中神代へつながる道中には、それほどお手軽な撮影ポイントはない。

ランボーになったつもりで森林に果敢なアタックをかけるか、羽でも生えていない限り、思い通りのショットは望めない。

伯備線には、特急しか走っていないのではあるまいか、と思えるほど頻繁にやくもと遭遇する。

新見駅の時刻表を見ても、ほぼ毎時運行しているやくもに比べて、その他のローカル列車は日中6〜7往復程度しかないので当然だが、通過駅でしかない地元では、この路線いったいどう見えているんだろう。

山の天気は変わりやすいというが、日が差したと思えば小雪が舞い散る吹雪の様になったりで、まるで猫の目のように変わり、およそ明るさは一定しない。 

何枚かやくもの写真を撮ってみるが、撮影時点ではあまり良い手応えはない。

気温は氷点下にはなっておらず、路面凍結の心配はなさそうだが、30分も外にいると結構冷える。

ジムニーも、ミニに比べたら暖房が良く効く点は気に入ったが、如何せん一般道では遅いのである。

直進安定性の悪さは、その車の性格上仕方がない所ではあるが、オーバードライブのない三速 AT の実速80kmは3500回転にもおよび、およそ静かとは言えないエンジン音も相まって、あまりアクセルを踏み込む気にはなれない。

サスペンションもコイルスプリングとはいえ、コンサバな3リンク形式のせいか、横にスライドするような動きが顕著で、上半身が常に揺らされている感覚に慣れるまで、少々時間を要する。車重も軽いので、路面からの突き上げもかなり激しく、その乗り心地はスパルタン極まりない。

比較対象とするべきではないのだろうが、同じ形式のラダーフレームにリジットサスを採用しているレンジローバーは、その点優れた車であったように思う。

それほどパワフルとはいえない4リッターV8 だが、エレガントに走るには十分なトルクとスムーズさを持っていたし、いかなる路面でも快適なセダンに乗っているかのような感覚を与えてくれたことに、いまさらながら気付かされる。

リアゲートも上下二分割で開くので、下側はテーブルとしても使えたり、上だけ開けば雨の日の撮影には、便利なことこの上ない。背中にタイヤを背負うような無粋なことはしないし、リヤワイパーでさえコンシールドにして見えないように配慮されている点などからも、力の入れ具合の方向が全く違う車である。

乗り心地の良さに貢献しているエアサスも、速度によって自動で車高を変えたり、乗り降りの際には低くなるなど、なかなか芸達者な一面も持っていたが、その多芸が災いし故障の原因にもなっていたことが、残念でならない。

ただ、全長こそ4.7mちょいだが、2メートル近い車幅は今回のような狭い林道では持て余すことは間違いなく、取り回しの楽さは軽四輪サイズでしかないジムニーに軍配が上がる。一般道のコーナーでは多少不安がある着座位置の高さも、山道に入ると前方視界の見やすさのメリットに変わる。

ミニで来ていれば、ちょっと躊躇するような泥濘地や深いブッシュにも、お構いなしで入っていけるし、また拍子抜けするほどいとも簡単に脱出できてしまう。デリカやレンジと違って小型軽量ボディで、その走破能力を最大限に生かしていることが、この車ならではの魅力である。

あまり調子に乗って、崖から転落というお馬鹿なシチュエーションにならぬよう自重は心がけているものの、ついつい深みに嵌まって仕舞いがちになる、危ない魅力だ。

とはいえ、床から生えた2本目のレバーで、走行中も二駆/四駆の切替えは可能な点もマニュアルトランスミッションなら歓迎されるところだろうが、フルタイム四駆に慣れたら面倒なだけで、お手軽なオートマ車にはあまり似つかわしくない。

その昔、友人が所有していた(で、時々スキーに行く時借りていた)スバル・ジャスティ4WD のように、シフトレバーのボタンを押せば切り替わる機構でもあればと思う。

しかし、たぶんパジェロではなくジムニー選んだ時点で、それは決して言ってはならない禁句のような気がしないでもない。

ミニ乗りの感覚からすれば、ごくフツーのことも、マーチから乗り換えた娘にとっては、唖然とすることも多いのだろう。だが、贅沢を言えばキリがないので、この車の美点を探していこうねと諭している。

親父は、もう完全に慣れたけどね。いやあ、おもしれ〜わこの車。


…ということで、たぶんつづく。
2013年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2013.12.18] 伯備線遠征:其の弐 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2013年12月15日日曜日

伯備線遠征:其の壱

12月に入ってから、なにかと仕事が立て込んで写真を撮りに行く時間も取れなかったが、やっと先日一日だけ出掛けることができた。

紅葉の時期は、スケジュールが合わず逃してしまったので、それなら雪景色でもと思い伯備沿線を辿ってみたのである。

もちろん、この季節に県北へ向かうのであるから、当然ジムニーの試乗も兼ねており、ついでにあわよくばサンライズ出雲にも再挑戦してやろうなどと、たいへん欲張った計画だ。

撮り合えず、今回は「サンライズエクスプレス:リベンジ3編」といったところか。(^^)

前回の反省により、バックアップや動画などは言うに及ばず、連写に頼らずワンショットに賭ける DP3 Merrill の一本勝負である。と、エラそうに気合いだけは入っていたのだが、準備に手間取って出発が遅れてしまった。

今回の撮影地点である布原には、とても予定時刻には到着できそうにないので、前回と同様井倉駅手前の第7高梁川橋梁で妥協したのである。

周りの景観がイマイチなことは、前回の撮影で把握していたので、今回は風景は諦め多少アングルを変えて、列車にフォーカスすることにした。

出発前の調査では、20分程度の遅れという情報だったので、第7高梁川橋梁なら十分に余裕のある時刻だ。撮影準備を終えた直後に、鉄橋手前の踏切から警報器の音が聞こえてきた。

撮影データを確認しておくため、軽く練習でもしておくかと思いファインダを覗いたら、いったいどこで遅れを取り戻したのかサンライズ出雲、今回は珍しく定刻通りにやって来やがったのである。

フォーカスはマニュアルにしていたものの、最近露出オーバー傾向にあるため、本番ではマイナスに露出補正を掛けてシャッター速度を稼ぐ予定だったのに、…。て、シャッター周りのダイヤル回すだけなんだが、それさえ出来ないほど、まったく心の準備が出来ていない。

絞り開放のままで、タイミングにだけ集中することにしたが、液晶画面には シャッター速度 1/80秒と表示されている。これはダメだなということが、シャッターを押す前から判っていて虚しさを増長する。

結果は、当然被写体ブレである。現像時にマイナス1.5段の補正を掛ける必要があったことから、せめて事前の練習が出来ていれば、1/200秒は稼げた筈だが後の祭り。(リベンジ3:またもや玉砕)

背景の色合いも地味だし 1/500秒以上を期待するなら、やはり年が明けてもう少し日の出の時間が早くなってからの季節に挑戦した方が、無難であろう。

その後、布原と備中神代を経由して、伯備線沿いに県道8号線を神郷方面に向かって北上した。

生山(しょうやま)までの県道8号線には、伯備線を撮るなら絶好の撮影スポットと言える場所が多く、大変美味しい路線であることがわかったのが、今回最大の収穫である。

また、その後の日野、江府、伯耆溝口あたりまでの国道180/181号線沿いもなかなか景観が良いので、季節によってはまた改めて訪れてみようという気にさせる。

ま、その辺の写真は次回以降に、ぼちぼちと晒してみることにする。


…ということで、たぶんつづく。
2013年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2013.12.15] 伯備線遠征:其壱 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2013年9月28日土曜日

ミニについて

最近のトレンドなデザインを見るにつけ、この地球上にはカーデザイナーが実は一人しかいないのではあるまいか、と本気で疑っている。

それほどメーカごとの、もっと言えば国ごとの個性や特徴もない、おんなじデザインの自動車が増えているように見える。

車好きな幼少の頃は、町ゆく車は一見して、ことごとく車種を言い当てる神童として誉れも高かったのだが、いまでは全く区別ができない、ただのおぢさんになっちまった気がする。

溶けかけたアイスクリームのようなデザインが多い現代の車と違い、50〜60年代の確固たる丸みを帯びたそのデザインを、新鮮に感じる若い人も少なくないらしい。(ま、多くもないんだろうが)

ただ、その見た目だけで購入すると、あまり長続きはしないようだ。逆にハマると結構深いという点においては、その他の趣味人にウケるモノと同様に、沼の要素も持っている。

自分のミニについて、あまり書いたことはないのだが、最近の撮影行の足として、また時には風景の一部としてモデルにも任命したりと、登場する機会も増えたことなので、簡単に紹介しておこう。

良くも悪くも、50年代末期から60年代初期を代表する設計であり、レースシーンでも並み居る強豪を抑えて大活躍したあの時代から、さほど大きな進歩はしていない。いわゆる、頑固にも程がある英国車である。

この距離で停止するのは難しいのでは、という場合はまず間違いなく当たるし、この速度でこのカーブ無理っぽいと思うところでは、たいていコースアウトするかスピンするか最悪ひっくり返るか、のいずれかである。

その点において、人間の感覚や予想を裏切ることのない、たいへん素直な性能を持った車であり、すべてが低いレベルでバランスを保っている。

この時代、普段走りの一般道でほぼ全力を出し切れる車も珍しく、貴重な存在であると思う。

[概略と経緯]

基本デザインは、デビュー当時から生産終了まで全く変わっておらず(70年代のクラブマンは、この際無かったことにする)、91年から復活したクーパーモデルの、キャブレターからインジェクションとなったローバーミニの最初の型式である。

2005年に、それまで乗っていたレンジローバー(こちらは96年式の4.0SE)からの乗り換えである。年式は95年式だが、軽微な事故により登録抹消された期間が長かったので、走行4万キロ強の中古車として購入。

初年度登録から18年、購入からもすでに8年が経過しているが、オールドミニフリークに言わせれば、まだまだこれから、らしい。

走行距離は、9月現在あと僅かでオドメータがリセットされる99,300km であるが、わりと定期的に点検していることで、幸い大きな故障には遭遇していない。また、駐車スペースに屋根があることで、ボディの状態も年式に比べて傷みは少ないと思う。

仕事とプライベートの区別なく利用しているが、近場用の原付や雨の日などは別の営業車(VW Polo)を使うことが多いので、走行距離は月間千キロ以下である。燃費は、だいたい平均13〜14km/L だが、空いた県道などで少し長距離を走ると20km/L ぐらいまで伸びることもある。

未然にトラブルを防ぐ意味で、問題となりそうなパーツは対策品に交換するなど、それなりにコストは掛けている。だが、最近の車に比べると各部品がそれほど高価でないこと、正味で安価な中古品も数多くあることなどから、以前に比べると俄然庶民的な車であり、その邪魔にならないサイズも相まって、身の丈にあった車といえる。

レンジも、金さえあれば良い車であったと思う。今ほどガソリンも高くはなかったとはいえ、町乗りの燃費は悲惨な状況にあり、故障すると財布の被害が甚大である。

また、エアサスを始め足回りなどの凝った機構が災いして、わりとマメに壊れてくれる。ある程度覚悟はしていたものの、そんな甘い考えを吹き飛ばすがごとく、現実の厳しさを痛感させられる良い経験となった。

幼少の頃(といっても中坊時代だが)より何の根拠もなくただ漠然と、いつかはミニと考えていたにもかかわらず、出会いがなかったことにより35年が経過していた。

41年もの長きに渡って、そのスタイルを維持しつつ生産されていることが災いして、自分の中では知らず知らずのうちに、いつかはが、いつでもにすり替わっていたのかもしれない。

2000年、ついに生産終了の知らせと、時代の趨勢とはいえあまりにもミニらしくない残念な仕様である後継車が、いやがうえにも焦燥感を煽る。

これが最後のチャンスとばかりにローバー代理店を訪れたのだが、気が付いたらなぜかレンジローバーになっていた。

当時はアウトドア志向も真っ盛りで、デリカ・スペースワゴンみたいなデカい車からの乗り換えに、いきなり軽四サイズのチンケな車に移行する必然性は皆無であったし、一歩間違えるとディフェンダー 90 になった危険性もあったぐらいだ。

その時代時代によって、趣味趣向というものは揺れ動くものである。そんな流れに逆らって購入したとしても、ましてや、もっと若い時に購入していたら今のように愛でることも、たぶんなかったと思う。

そんなことを考えると、おそらく2005年辺りが至極真っ当な必然性をもっていたのだろう。

同じ英国車とはいえ、およそ比較対象にもならない2台の車のギャップに、当初は戸惑いもあった。しかし、バカみたいに金のかかる車を5年以上も維持することに少々疲れ気味な時期に、やっと目が合った相手のアバタがエクボに見えたとしても不思議はない。

だいたい、40年以上もおんなじデザインを見続けてきたんだから、フツーは見飽きるはずだ。

自分で所有して毎日毎日8年以上眺めたり、写真を撮っているが、未だに飽きていないどころか、前から良し、後ろから良し、斜めや上からも良しで、下手すりゃ真下から見ても、ボンネット開けても興味深い、という危険な状態である。

たぶん前よりも、ずっと、いや、これは決してアバタなどではなく、エクボに違いないと確信しているのであり、…余談である。

仕様諸元には、心躍るパワーも目を惹く装備も皆無であり、それこそ 60年代(昭和40年頃)にワープさせてくれる。頭の中もそれに応じて切替え、既存の価値観や概念を捨て去り、自ら積極的にパラダイムシフト受入れる必要がある。

そのことを前提に評価してみるが、当然極度のバイアス信号が検出されるかもしれないので、そのつもりでヨロシク。

走って曲がって止まるというのが自動車の基本三要素であるが、走る止まるはさておき、曲がるという性能においては多少抜きん出ている。

今では聞かれることもないが、シャーシが勝つというバランスが望ましいと言われた時代もあり、それが面白さにつながっている。

そこそこ走って、よく曲がるが、あんまり止まらない、と言えば分かりやすいかもしれない。

[走って]

運転席に座ると、真正面にハンドルは無いしベダル類もかなり内よりであり、ハンドルの影でメータ類は殆ど見えない。(速攻で、定番中の定番、ステアリングヘッドを寝かすためのステーで対策)

フロントウィンドウから見える景色は独特で、あの短い短いボンネットやタイヤハウスの膨らみが見えることに感激し、また直立したフロントガラスとやたら天井が目に入る視界に、しばらくは違和感を感じたものだ。

運転席からボンネットが、それがあるにも関わらず見えない車が多い。自分にとってはもうこれがデフォルトなんで、他がおかしいとマジで思う。

その動力性能自体には、とりたてて見るべきものはない。

時代の要求から内装やエアコン、ボディの補強などによりデビュー当時から100kg 以上重たくなっているが、それでも軽四よりも短い3メートルちょいの全長と、その車重が 700kg 少々と十分に軽いことで、たかだか60ps 程度のエンジンにもさほど不満はない。

また、その眠い吹き上がりにも、スムーズさのかけらもない高回転域にも、現代の自動車の進歩の度合いを感じさせるが、得るものがあれば失うものも少なくないという事実を、思い出させるきっかけとなる。

個人的には、高速道路など滅多に利用することはないが、オーバードライブもない直結の4速は 100km/h がどういう速度なのか、エンジン音と振動をもって教えてくれる。間違っても、走行中にカーステレオなどを聴けるような環境ではなく、運転に集中することを促される。

速度に関しても、所詮旧式な OHV でありノーマルでは十分に非力な上に、回して楽しいエンジンではないので、その上限は知れている。

実用許容回転数は、だいたい3500rpm(100km/h) 程度と考えておいた方が良い。その気になれば 5000rpm (150km)以上も不可能ではないが、それなりの根性と忍耐に加えて多少の度胸も必要となる。

ただ、そのサイズから想像するよりも直進安定性においては優れており、法定速度の範囲では極めて安定しているので、出来の悪い軽四などとは比較にならない安心感がある。

ちなみに、エンジンとトランスミッションが二階建てというその特異なエンジン形式から、エンジンオイルとミッションオイルが共有のため、オイル交換は3,000kmごとと、比較的短期間での交換が必要になる。

また、ガソリンはエンジン形式が古いのでハイオクであり、満タンで約34リッター入るが、燃料ポンプの冷却にタンク内のガソリンを使用しているために、25リッター程度で給油することが推奨されている。

この辺りも、現代の自動車とは比較にならないほど、車の構造自体の特殊性をもって運転者に興味を抱かせるきっかけとなっている。(フツーは目が点になる)

そのかわりに、ハイオクとはいえ満タンで100リッター以上入っていた以前に比べると、せいぜい一斗缶程度で済むことにより、レシートに記載された金額はたいへん微笑ましいのも事実である。

[曲がって]

パワステなどという甘えた装備もないので多少腕力も必要になるし、路面によってはキックバックも相当強い。停止したままの据え切りなど以ての外で、その重さは運転者に対して暗に足回りに無理な力を掛けることを戒めている。

ほんの少し車を動かすことで軽くなるにもかかわらず、動力により軽々とハンドルが切れることのメリットに対するデメリットは、パワステ車に乗っている限り実感できない。

しかし、山坂道に差しかかると、俄然その気にさせてくれるハンドリング性能を持つ。ウルトラダイレクトなその操作感は、ロールするほどサスペンションストロークもないことによって非常に安定しており、ハンドルを切ったら切っただけ曲がるという快感を与えてくれる。

また、運転者に対して、舗装のざらつきやうねり、ギャップやデコボコなどの情報は隠すことなく正確に伝えて注意を促し、常に運転者との対話を絶やさないコミュニケーション能力も発揮する。

タイトなコーナーでは、サスペンションが底付きして警告を発するなど極めて饒舌であり、決して乗り心地などという誤魔化しで、その場の状況を誤認させるようなことはしない。

乗っていて面白いのだが、だからといってそれほど速いわけでもない。前述のエンジン特性も相まって、トータルの性能自体はあくまでも60年代のレベルであるし、現代の車と大きく異なるのは、前輪駆動の良いところも悪いところもすべて運転者に伝えてくれる。

要するに絶対的な速さではなく、さほど危険な速度域に達することなしに、あたかも速かったと勘違いさせてくれることが魅力であり、運転そのものを楽しませてくれる車である。

だが、ミニよりもずいぶん後になって設計製造された前輪駆動車、スバル・レオーネ RX  やファミリア 323 などにも乗っていた経験があるが、トルクステアやタックインなどもっと酷かったように記憶している。

あの時代の欧州車が当時の国産車に比べて、いかに進んでいたかという事実にも、いまさらながらに気付かされるのである。

標準のサスペンションは、ラバーコーンという特殊なものである。開発された当時、限られたサイズで機能するコイルスプリングがないので苦肉の策であったらしいが、それがミニの独特の乗り心地を醸し出している。

しかし、そのヘタリも早く3年程度で劣化する。特に、初期に比べて増加したフロント荷重が災いし前が下がってしまうので、ハイローキットという車高調整に必要なオプションも、ミニ乗りの間では定番となっている。

現在では、ラバーコーンに換えて使用できるコイルスプリングも数多く市販されており、メンテナンスフリーという魅力に負けて、我ミニにもハイローキットとと共に組み込んである。この場合、バネレートに応じたショックアブソーバも合わせて交換することが望ましい。

しかし、前述のサスペンションが底付きして音を発することは、その構造上ラバーコーンに底はないので、オリジナルでは先ずあり得ないと思う。

それなりの対策が施されていない、金属コイル製品特有のデメリットの可能性が高い。(金属同士がぶつかり合うので、結構デカい音がする)

ミニ本来の乗り心地に関しても、劣化したラバーコーンしか知らないので、金属コイルとの比較については論評できない。

ここは、新車で購入できなかった者のツライところだが、今更ラバーコーンに戻す金も度胸もない。(だってコイルサスよりゴムの茶碗の方が高いし、それより工賃がもっと高い)

[止まらない]

ブレーキ性能に関しては、ABS などの他力本願な装備などは当然ないので、それなりである。ここでも車重が軽いことが功を奏しているものの、制動距離に関してはすべて運転者の技量に委ねられている。

そもそも、ブレーキの第一目的がタイヤの回転を止めることなら十分な性能と言えるが、車自体を減速または停止させるという点においては、イマイチと言わざるを得ない。踏めばタイヤは止まるが、車は一向に…、という事態になりかねないのである。

基本性能に不満を感じるなら、豊富なパーツ市場に様々なオプションがあり現在でも数多く販売されている。ブレーキ関連にも相当な品揃えとなっているが、大半はサーキット走行を前提としたチューニングキットであるので、価格もそれなりである。

これも、目的と手段を取り違えた安易なチューニングは避けるべきであり、タイヤのグリップを考慮せず、唯々ブレーキ能力を強化してもあまり意味はない。(タイヤが止まるだけ)

全体のバランスを崩してまで、一部の性能強化を行うことはそれなりの犠牲も伴うことが多く、徹底的にやるなら相当な出費を覚悟する必要がある。

もちろん、ノーマル状態でも考え方次第で、改善の方法は幾らでもある。

自動車本来の挙動に対して常に意識した走りを行い、濡れた路面など滑りやすい状況では、自らブレーキを踏む足で、セナ足と呼ばれる貧乏揺すりのようなポンピングを行い、ABS に替わる対策を講じて補うのである。

そうでもしないと、四輪ロックフルブレーキングを敢行すれば乾いた舗装路であっても必ずどちらかに振られ、真直ぐ止めるのは難しい。

標準的なセッティングでは、先ず前輪がロックするので無様にスピンすることも少ないが、パニックブレーキでコントロールを怠ると、我ミニはたいてい右リアが前に出ようとする特性を持っている。

したがって、 十分に止まれるだけの車間距離を維持することと、安全に旋回できる速度まで減速することが手っ取り早く、最も安価な当面の解決策であることは言うまでもない。

かつて教習所で教わった、運転基本講座を実践する意味がある、数少ない貴重な場である。

[安全対策およびその他の装備]

96年以前のミニには、エアバッグなどの衝突安全性などというものは全く装備されていないので、何かあればたぶんイチコロだろう。(あっても大してかわらないと思うが)

だが、自動車の安全性などというものは、運転者に依存している部分が大半であり、それだけに性能を過信する(ほど無いけど)ことなく、車間距離や速度に関して、乗る者が配慮してやる必要がある。

標準で装備されているものは、リアウィンドウのデフロスタと発煙筒ぐらいで変わったモノは付いていない。

エアコンは年式によりあったりなかったりだし、オモチャのような灰皿はあるが、シガーライターもないので電気製品を持込んでも電源供給能力は、自分で改造しなければ全くない。

カーナビやステレオはおろか、パワステ、パワーウィンドウなどおよそパワーを必要とするものは一切ない。間欠ワイパーなどもちろんあるはずもなく、簡潔ワイパーとして完結している。

ただ、もう一台の営業車(2001年式 VW Polo)のように、時間調節のできない間欠ワイパー(なんとデフォ7秒固定!)でイラつくよりは、自分で任意の間隔で手動による動作の方がマシである。

コイツがムカつくのは、一度でも間欠ワイパーからオフにすると再度オンにしても、前回の動作から7秒経過していないとピクリともしない。運転者が間欠であろうが無かろうが、ワイパーをオンにする時は直ちに動くのが礼儀であり7秒も前のことを根に持って人間を待たせるなど、機械の分際で言語道断である。

まるで、1分過ぎて入ったMドナルドで朝食メニューを断られたような気分になる。これを設計したドイツ人は、よっぽど石頭の石部金吉金兜野郎であると断定せざるを得ない。これを書いていても腹の立つ、…大憤慨の余談である。

ましてや、50年代後期の設計から基本的な変わっていないミニなら当然としても、21世紀に製造された車でリアウィンドウにハンドルがついていたのには驚かされた。(もちろんノンパワーだ)

95年式までのミニは、シングルインジェクションで以降のツインインジェクションとの差はどの程度なのかは知らない。だが、燃料噴射をコントロールするコンピュータのせいで、ロッカーアームの交換など、エンジンを下ろすまでもなくできる簡易なチューニングでさえままならない。

根本的な解決はキャブ仕様に戻すことらしいが、これはコスト的にもちとハードルが高い。もっとも効果が高いのは軽量化であり、あまり使用頻度の高くないエアコンを下ろすことも検討し始めて早3年以上になるけど、未だ実現していない。(撮影機材など含めると、以前より重量化しているぐらいだ)

ま、イザという時のことを考えるとその度胸もないし、それ以上に何かを付け加えることによる費用に対しては容認できても、捨ててしまうモノに費用を掛けることは、ゴミの処分に支払う費用のような抵抗がある。

だいたい、壊れてもいないモノを邪魔だからという理由だけで捨ることにも、罪悪感を感じる。それでいて一方では、もう一台走りに徹した真っ赤なミニもあれば嬉しいな、などど不遜な妄想をしていたりするんだから、沼は危険である。

バッテリー充電能力も、家電製品てんこ盛りな、現代の自動車と比べるまでもなく弱い。したがって、強化バッテリーとレギュレータ交換(85W)は定番となっており、これも実施している。

また、そのバッテリーもスペースの関係でリアのトランクに放り込まれており、エンジンルームまでの長距離(といっても精々3mもないんだが)を経由しているため、ノーマル状態では電圧降下が著しい。

事実、アーシングと呼ばれるマイナスアースをボディアースに頼らずケーブルによって送る対策を施した途端に、ヘッドライトのメインスイッチが煙を吹いたぐらいである。当然、スイッチ類はヌルい英国製などに頼らず、出来の良い国産の互換品に交換する必要がある。

95年式までは、驚いたことにエンジンルーム内のガラス管ヒューズを採用という、いわば 60年代で時間が止まったような仕様である。

ヘッドライト回路には、リレーさえも設置されておらず、これが前述のスイッチ類の発煙原因にもなっている。また、ノーマルでは小田原提灯であり、恐ろしく暗い上にその照射範囲も極めて狭い。

で、リレーをメインスイッチとの間に挟んでバッテリーから最短距離で電源を送り込むという、今では当たり前の改善を施したのだが、てきめんにライトは明るくなった。(当社比1.5倍ぐらい)

とはいえ、やっとフツーの明るさになっただけで、照射範囲などの問題は、より抜本的な対策が必要だ。山道などマジで暗い場所では、コーナーの出口が見えないことが多いので、我ミニではフォグランプを2個少し外側に向けてに追加している。

最近では、中国産のおかげでかなり安くなった、キセノンランプなども珍しくない。しかし、あまり色温度の高いライトは、雨の日の見にくさなど環境条件によるデメリットや、ミニのような古い車にとって、機構が複雑になり過ぎることによるトラブルなども増えると聞く。

そんなこと考えると、あまり贅沢をいってもしょうがない。ある程度は、改善に向けて対策も施すが、あまり度が過ぎると沼でおぼれる可能性も高くなる。

要は程度問題なのだが、なるべくオリジナルの良さを失わないように心がけていないと、本来何のためにこの車を選んだのかという、当初の目的や理想を忘れがちになる。

あるがままを受入れ、その中で最良な方法を模索していかねばなるまい、と常々思うのである。

いずれにしても、生産中止から今年で13年になろうとしており、すでに時代に合わなくなってしまった車ではある。

しかし、今がそれほど好きな時代でもないし、時代に合わないからといって、目の前から抹殺してしまうにはあまりにも惜しい。ましてや、他人から見ての価値など、この際一切関係ない。

だからこそ、今そこにあるミニが自分にとって貴重な存在となり、昔から年寄連中にミミタコのごとく聞かされた、モノを大切にという言葉の意味が理解できるのである。

ミニの話、いつかは書こうと思いながら、いつでも書けると思って今まで避けてきたんだが、少し吐き出してちょっとスッキリしたな。

ま、ミニの話になると止まらなくなるから。(8千文字越えの新記録)
だって、コイツはブレーキが…、ね。



…ということで、ヒトツよろしく。
2013年09月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2013.09.28] ミニについて 〜より転載&加筆修正

2012年12月15日土曜日

ユーザ・インターフェイス

前回の iTunes 11 に対する不満は、ユーザ・インターフェイスに関する考え方の違いが根底にあるように思う。

一つには機能と、もう一方にはデザインがあるように思われがちだが、この両者には密接な関連があり、実は同じものであることが多い。


OS X のウィンドウ左上にある信号のような三つのボタン、ファインダを筆頭に各アプリケーションのウィンドウにも必ず存在する。タイトルバーに相当する位置に横並びがお約束だが、唯一の例外が iTunes の前バージョンでミニプレーヤを選択した時に限り、縦並びになる。アップル自ら犯した掟破りであり、後にも先にも例がない。


で、今回はミニプレーヤにおいてはウィンドウにあらずと勝手なルールをでっち上げたのだろう。縦にも横にも、三つのボタンを配置すること自体を止めてしまった。


ま、それさえアップルの勝手なんだから別に論うつもりも無いのだが、タイトルバーまで無くしたのなら、いっそ iTunes は特別なウィンドウということで、旧来のアクアインターフェイスを止めて、専用のデザインを興せば良いと思う。どうせ、ファインダ上でのファイルの並び方も異なることに対して問題がないと考えているのなら、似て非なるものより混乱は少ないだろう。


仕事柄、いろいろなタイプのユーザをサポートすることが多いが、Macintosh を業務で使用しているユーザには、新しいことを好まない人々も少なくない。


古くからの友人である某商店主などは、頑なに一度覚えた操作法を変えようとはしない。基本的に、ショートカットは使わない。コマンドは、メニューからの選択一辺倒であり、メニューにない機能は無いモノとして片づけられる。目に見えるものが全てであり、見えないものは信用しない、使わない、という点においては徹底している。

新しい機能など迷惑だと言わんばかりで、自分の用途にとって不必要なバージョンアップは、とことん毛嫌いされる。安定こそが命であり、リスクを伴うような多機能化などもっての外である。

業務使用であるからといって、作業効率などは優先順位として必ずしも高いわけではない。たいていは、自身の理解の範囲を超えたモノに関して興味を示すことはなく、言い換えれば身の丈に合った使用法を好み、多少の不便は気合いと根性で乗り切ってしまう強者である。

さしずめ回転寿司なら回っていないモノは食わない、特別な注文などしない。と、まるでレストランの優良顧客のように聞こえるかもしれないが、細かいことには結構注文も多い割に、経営者としては当然のことながら経費に関しては渋チンで、ここだけの話サポート業務にとっては、必ずしも上客とは言いがたい。

かれこれ、十年以上も Macintosh を使用しているわけだから決して初心者ではないが、かといってオッタッキーなパワーユーザでもない。ただ、同じ傾向のユーザでも細かい部分では多少異なり、独自の使用法を編出して(というほど凝ったものでもないのだが)自分なりの効率を保っている。

極論すれば、ユーザの数だけ使用法はあり、同じ機能でも複数のアプローチが可能な柔軟なコマンド体系こそが Mac OS の美点でもあった。ユーザが一度習得した経験から類推して操作をするという、ある意味手探りの操作でさえそれなりに使えることが、日本語で書かれた参考書も少ない黎明期のマックユーザにとって、一助になっていたことは間違いない。

そのような意味では、直感的に把握できるインターフェイスを実現することは、容易ではないが重要である。彼らにとって、シンプルであることは歓迎されて然るべきモノであるが、それは決して存在する機能を隠されることではない。

前述の機能とデザイン、ただシンプルを以て良しとするなら、多機能はその対局にあるものかもしれない。が、実際そう単純なモノでも無い。機能美という言葉があるように、要するに見せ方次第で意外と両立するのである。

卑近な例を挙げれば、オーディオアンプや自動車のデザインに見受けられる。

アンプの場合は、使用頻度の高いヴォリュームコントロールを大きめにして、その他の機能はフタをして隠してしまうというもの。一歩間違うと、大変チープなモノに成り下がってしまう恐れもあり、あまり高級品では採用されないことが多い。

逆に機能を隠すことなく全面に並べても、良いデザイン(個人的に気に入っているだけだが)も存在する。一例を挙げるなら、もう一方のマッキン、McIntosh のコントロールアンプに見られるような、機能美である。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、コントロールするという本来の機能に対して真っ向からアプローチした結果、数多くのスイッチ類をシンメトリーに配置することにより、機能を隠すことなくかつ美しさを損なわず、といった難題をクリアしていると思う。また、対照的にパワーアンプでは、メータを前面に大きく配置し、最小限のスイッチ類でデザインされたそれは、(当たり前だが)並べても全く違和感のない整合性を実現している。

別の例では、Mark Levinson のプリに見られるような、シンプルな美しさである。必ずしもボタンやスイッチ類が少ないわけでもないのだが、全くごちゃごちゃした感じはなくシンプルに見えるのはなぜだろう。

往年の LNP-2L、最近の(でもないけど) No.26L などにも共通しているのは、安物にありがちな回転するツマミ、縦横のスライドスイッチ、上下動のタンブラースイッチなど操作の異なる種類のスイッチ類を混在させない、というポリシーにあると思う。ま、ここのパワーアンプはブラックパネル一色のプリに比べると結構ケバかったりするんだが、少なくともかつてのプリのデザインは良かったと思うな。

McIntosh と Mark Levinson、 デザインポリシーの全く異なる両者に共通したものといえば、シンメトリーなデザインと最少限の種類で構成されたスイッチ類、統一された表面材質も含めたカラーあたりではあるまいか。(と、おいそれとは手を出しにくい価格、という点でも共通するな。かつては、一台でこいつらを軽く上回る価格の Quadra 950 を販売したこともあるが、ある意味良い時代ではあった。余談である。)

単に数を減らせば、シンプルなデザインになるのは当たり前で、機能上必要な数を網羅してもなおシンプル(に見える)なデザインは存在する。ただ、隠せばいいってもんぢゃないという例でもある。

一方、スマートに隠す方の例として、かつてブラウン管時代のソニープロフィールモニタがある。初代の KX-27HF1 は、オーディオアンプにありがちなフタで隠すというある意味安易な方法であった。しかし、二代目以降の KX-27HV1/KX-29HV3 などでは、ボタン自体を自照式にして、普段はほぼ全ての機能を見えなくし、必要な時だけ表示するというもの。既にリモコン操作が当たり前の、その時代のテクノロジーがあってこそ実現できたデザインである。

そのおかげで、高機能でありながら非常にシンプルでなかなかカッコいいデザインに仕上げられており、我が家のテレビは一時こればっかりだった時期もあるぐらいだ。スピーカはおろかチューナさえも内蔵しておらず、たしか別売りで10万円近い値段だったように記憶している。もちろん本体はその三倍ぐらいだったような、…やれ恐ろしや。これも余談である。

ま、なんでも隠しゃいいってもんでもない例は、最近のキヤノンの複合機を見ればわかる。当然あって然るべき機能まで隠してしまうと却って分かりにくく、使い難いだけのデザイン倒れの好例といえよう。(フタで隠すより、自照式にした方がコスト削減になることが主たる理由である、というところまで見え見えなのも、時代のテクノロジーに依るものである)

自動車の場合は、最近めっきりお目にかからなくなってしまったが、リトラクタブルヘッドライトのような、本来有るべきものがその場所に無いことを逆手にとった、隠すデザインの一手法である。

その歴史は古く、1930年代後半まで遡ることができるが、同年代のご同輩にはやはりコルヴェットを筆頭に60年代アメ車だろう。幼少時には強く憧れたもので、しばらくは川津祐介の乗るあの車はマジで空も飛べると信じていたぐらいだ。(コルヴェット自体、当時の国産車のデザインと比べらたら自動車というより、宇宙船に近かったように思う)

ただ、このあたりになると、その機能自体は既に単なる機能では無くデザインその物になっていたし、リトラクタブルにする理由などどうでも良かったので、あまり良い例とは言えないかもしれない。空力の観点から、全面投影面積を少なくするとか、保安基準の制限からなんとかボンネットをより低くするためなど、御託を並べればは数あれど、要するにカッコイイからであり、ある意味デザインの目指す究極の到達地点と言えなくもない。(ガキの頃には、リンカーン・コンチネンタルや、オールズモービル・トロネードでさえ憧れの対象であった)

が、その後国産車に不便を承知で同形式のヘッドライト装備したモノは、概ねライトをアップした状態のマヌケ面ばかりが目立ち、あまりトキメクものは無かったことから、リトラクタブルヘッドライトなら何でも良いというワケでも無い。2灯式の場合はだいたいカエル顔になるのだが、911 のようなカッコ良さは皆無である。

したがって、機能を犠牲にしたデザインなどさほど価値は無く、その上に格好が良くないとなれば本末転倒も甚だしい、というものだ。

iTunes に話を戻せば、ミニプレーヤにおけるボタンの表示/非表示は、より小さな面積で機能を犠牲にしないという点では、それなりに評価できるものである。というか、ポインタを持っていった時のみ再生ボタン等を表示し、通常は再生中のアルバム情報を表示するというアプローチは、優れたもので理にかなっていると言える。

しかし、対するフルサイズウィンドウ時の iTunes のデザインはイマイチ・イマニ・イマサンである。

ミニプレーヤ同様、検索ウィンドウなど虫眼鏡アイコンで十分だと思うし、フルサイズへ復帰するボタン(小さ過ぎて、これまた押し辛い)は左端にあるにもかかわらず、ミニプレーヤへの切替えボタンは真逆に最右端に配置される。

フルスクリーンへの切替えボタンと同様に、なぜあのような半端な位置に並べる意味はあるのか不明だが、双方とも使い難いだけでなく矛盾に満ちたデザインと言わざるを得ない。(タイトルバーを無くしたいのなら、そこにあったものの移転先ぐらい考えとけよな)

中央上部のさほど広くも無い領域に、無理やりアルバムアートワークを表示する(で、サイドバーから削除する)やり方にも疑問が残る。もちろん、そのアイコンサイズのアートワークをクリックすればフルサイズで表示されるのだが、再生中の楽曲に限られる。再生だけでは無く編集機能も使用している iTunes としては、選択中のアルバムアートの確認ができないという点で、使い勝手が大きく犠牲になっている。

また、最近の OS X のバージョンで推奨されるフルスクリーン表示機能との関連性から、マルチウィンドウ化を避けてきた経緯があるにもかかわらず、前述のアルバムアートワークのフルサイズ表示では、フルスクリーンモード時でさえオーバーラップで表示されてしまう。ビデオ再生時のウィンドウも同様で、フルスクリーンモードで不用意に iTunes の背景をクリックしてしまうと、再生画面は臆面も無くバックグラウンドへ隠れてしまう。

追記:ビデオ再生時のウィンドウは、従来のバージョンでも環境設定内の詳細にある「〜常に手前に表示」を選択することで、バックグラウンドへ隠れてしまうことは回避できた。が、本来常に手前に表示がデフォルトであるべきだし、そのような設定項目自体が必要ないはずだ。iTunes ウィンドウ内での表示などの選択は、メニュー項目から無くなり、再生中に右クリしないとできない。

以前は、表示形式にウィンドウ内も選択できたのだが、新しいバージョンでは別ウィンドウのみの一択しかない。フルスクリーンモードとの兼ね合いを考慮すれば、ウィンドウ内表示の方が妥当だと思うが、あらゆる点においてインターフェイスの基本方針がブレまくりなのも気になる。

いったいアップルとしては、何をどうしたいんだと…。

今回のバージョンアップにより、カラムブラウザの表示機能に掛けられていた制限は、ある程度緩和されたようだが、そもそもなんでそんな意味のない制限を掛ける必要があったのか、理解に苦しむ。

リリースが一ヶ月近く遅れたのも、実装機能の整合性を調整することが理由として考えられるが、基本的なデザインを見るにつけ過渡期の製品にありがちなやっつけ仕事の匂いがあちこちに漂う、今回の iTunes 11。


ちなみに、アクアインターフェイスこそ、スコット・フォーストールの置き土産であり、この呪縛から逃れようとするなら、根底からの改革が必要になるだろう。


まさか、この矛盾に満ちたデザインが、サー・ジョニーのなせる技などと思いたくもないが、デザイン面で腕を振るうなら今こそ、その時であると言いたい。


わお〜、またもや連チャンだぜい。



…ということで、今年いっぱいヒトツよろしく。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan 


http://www.hexagon-tech.com/
[2012.12.14] ユーザ・インターフェイス 〜より転載&加筆修正