2012年11月14日水曜日

やっぱ、時計はスイス?

アップルがパチったとされる、スイス連邦鉄道(SBB)の時計。個人的には、あまり好みのデザインではない。

客観的に見ても、真っ赤な団子が秒針の先っぽにぶらさがっているようなデザインはいただけない。なんというか、こうバランスが悪いというかキモチワルイというか、針って呼ぶぐらいなんだから先っぽはトンガっていて欲しい。 指示側が逆ならまだしも、せっかく文字盤に書き込まれたインデックスの意味がないだろう。

以前、DVD レンタル店で借りてきたディスクには、必ずと言っていいほどその店の管理番号が書かれたシールが貼ってあった。店舗によっては、ディスクの外周に近い所に、無造作に貼り付けてあることがある。普通に DVD プレーヤで再生する分には、580〜1,400rpm 程度なのでさほど問題は無いのだが、Mac の内蔵ドライブなどでは、エラーになることが多々ある。

コンピュータ用の光学ドライブの回転数は 5,000〜10,000rpm と、下手するとハードディスク並の高速回転になるので、僅かな偏心でさえスピンドルには大きな負担が掛かり、最悪の場合故障に繋がる。最初はリッピング防止の為に、ワザとやっているのかとも思ったが、やる奴はシールを剥がしてでもやるので、あまり防止効果は期待できない。その上、善良な一般客にとっては、嫌がらせにしかなっていない。

おそらく、バイト君が何も考えずに適当に貼った結果だろうが、この手の作業に対してもある程度メカ的な知識があれば、なるべく影響の少ない内周寄りに貼るとか、同じようなシールを反対側にも貼るなどの工夫があって然るべきである。残念ながら、そんなものは一度もお目にかかったことはない。

古来より時計の針というのは、重量バランスを取る意味でオモリとなるべく、指示する側の反対には何らかの飾り物をあしらうことは多い。針の重心が回転軸付近に一致して、メカニズムに余計な負担を掛けないように設計するのが、言わばお約束のようなものである。

暗いところでも時間が分かるように、夜光塗料などを塗布されたものには、指針側にあえてインデックスを持たせた形状のものはあるが、特に秒針に関して反対側に全くバランスを取ろうとしたカケラも見えない針も珍しい。いっそ中心軸から反対側へのオーバーハングをゼロにすれば、それはそれでアンバランスの妙と言えなくもないが、その点ではツッコミが足りない中途半端なデザインだと思う。

また、計測機器のなど場合、指針とインデックスは重なり合うことが必修とされるらしいが、時計でコレをやられるとなんとなくダサイ。テスターぢゃねえんだから、触れるか触れないかギリギリ一致する程度が最も美しいバランスだと思うが、スイス国鉄の時計はあまりにも両者が離れすぎて、マヌケであると言わざるを得ない。どうせパチるなら、相手を選べと言いたい。(思いっきり、個人的見解)

訂正:秒針が届いていないのは、アップルの半端な模倣のせいでした。ここに訂正し、関係各位には失礼をお詫びいたします。

加えて、その針の動作も奇抜である。秒針が12時の位置で一瞬(というには、あまりにも長い時間)止まり、おもむろに長針が一分進んだ後に、やおら動き出すいうというものだ。かつて、我が国の国鉄の駅にある時計も、正時になった瞬間に長針が分を刻む動きをしていたように記憶する。ただ、あれは秒針の無い2針であったので、さほども気にもならなかったが、スイス国鉄はこれを3針でやっているんだから、違和感有りまくりである。

その時点で発生する遅れを、いったいどのように取り戻しているのか、それともわざと進めておいて調整しているのだろうか、など気になりだすと夜も寝られなくなる、まことに掟破りな時計である。どうせパチるなら、そこまでやれと言いたい。(きわめて、個人的見解)

そのような点においても、たしかに特徴的なデザインではあるので、目立ち度ではナカナカのものなのだろう。アップルが無断でパチった時計として、一躍有名になったのは間違いないと思う。たぶん、モンディーン(MONDAINE)の今年の売上げは例年になく絶好調だろうし、スイス国鉄にはアップルから予想外の大金は入るで、両者とも密かに喜んでいるに違いない。

iPad の画面上にグラフィックスとして表示される時計の針は、実質質量はゼロであり、機能上何の問題があるわけでもない。たとえ、針の先に16tと表記された錘がぶら下がっていようが、ミッキーマウスの手になっていようが、勝手にしやがれである。

だが、スイス国鉄はメカニカルなアナログ時計でこのデザインを採用している訳だから、その針は質量ゼロなわけでもない。やっぱ、見た目上これってどうよという気持ちになる時計フェチも、少なからず居るのではあるまいか。


こと見た目に関しては、多種多様な個人の趣味趣向、好みがあるのだが、デザインと言うモノは視覚に訴えるバランスが重要であると思う。本来の姿を知らずしてなされたアレンジや、意味のない改変によって作り出されたゲテモノばかりが、世に溢れている。気にしない人が多いからといって、そちらが基準になるような傾向は、まことに情けない話ではある。


iOS のカレンダーに表示される数字が、バランスを崩しているように見えるにもかかわらず、全く修正する気もないような最近のアップルに、その辺を期待するのは間違いかもしれないが、数値だけを頼りに作り上げたモノは、所詮その程度でしかない。

結局は、モチーフとなったオリジナルのメカニズムを理解した上で、とことん拘り昇華された形の方が、より美しいような気がする。

スイス国鉄の時計が、けっしてゲテモノだとは思わないが、アップル製品もこのまま細部への拘りをいい加減にしていると、いずれはお勤め品の群れの中に埋もれてしまうだろう。おかげで、最近のアップル製品、数だけは良く売れるのかもしれないが、…。

しっかしまあ、あれだけ彼方此方で訴えたり訴えられたりしておきながら、なんでわざわざ盗用までする必要があったのか不可解な点が多い。また、その特徴的なデザインから、断りもなくパチりゃ訴訟になることは猿でも分かる。(単なるバカなのか?)

要するに、17億円も払うぐらいなら、オリジナルデザインを興してもよかったんぢゃあるまいか。なんなら、ウチが半値以下で請負ってあげてもいいと考えているし、その辺の事情に詳しい方(フィル・シラーあたり)に、ぜひその経緯を説明して欲しいものだ。

たかが時計、されど時計である。

時計に関して我が身を振り返れば、故障した自動巻き時計の修理代捻出に窮するあまり、激安パチモンに手を出しては痛い目を見る、今日この頃。

ある程度予想していたこととは言え、真当なお値打ち品とそれなりのお勤め品には雲泥どころではない、想像を絶する差があることを身を持って痛切に感じている。

ま、サムスンから10億ドル、HTC から2億ドルも巻上げたらしいし、アップルにとって 2,000万ドル程度の端た金は、スイス国鉄に対する寄付みたいなもんだろう。

それにしても一般的に考えて、会社に17億円もの損害を与えた取締役は、フツー只では済まんよな。ひょっとして、スコットはコイツのせいで…、まさかねえ。



…ということで、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan
http://www.hexagon-tech.com/
[2012.11.14] やっぱ、時計はスイス? 〜より転載&加筆修正

2012年11月12日月曜日

春よ来い

Mac OS 改め OS X も 2001年のファーストバージョン以来、そろそろ12年目に突入しようとしている。

以前、スティーブはOS(ソフトウェア)の寿命は10年程度であり、大きな改革によって更新がなされないと生き残れない、みたいな説を持論としていたように思う。そろそろ、賞味期限が切れてんぢゃねえのかコレ、と感じることも少なくない最近の Mac OS について。

新たな10年の入り口かと期待されたライヨンも、1年程度でその役割を終え勢い山に登ってみたものの、既に10.9の噂も聞こえて来る。次は、海に潜るのかそれとも空を飛ぶのかは与り知らぬところではあるが、OS 11 になれば何かが変わるのだろうか。

10余年前に Mac OS X を初めて見た時の、あの期待と絶望の狭間で揺れに揺れ、眩暈すら覚えたような衝撃にまたもや襲われるのだろうかと思うと、今から楽しみでもあり憂鬱でもある。

OS X 以前からの Mac ユーザでさえ、もう既に忘却の彼方かもしれないが、初期のMac OS には正式な呼び名もない、Macintosh のオマケみたいなものであった。

今では俄に信じられない話ではあるが、ユーザが新たにフォルダを作る機能さえもない。起動ディスクには、システムフォルダと共に空フォルダ(empty folder)がひとつだけあって、これを複製して使えという、まるで冗談みたいなシンプルさである。

その後、アップルからも開発者向けにリソースエディタ(ResEdit)なども配布されたこともあり、有志(マニア)によるカスタマイズ文化が形成され、安定度と引き換えに自由度は広がっていった。スタンドアローンな環境に対して、さほど違和感もなく使っていた時代であるが、初期のマックOSに感じた、狭い場所に閉じ込められたような閉塞感は希薄であった。

その主たる要因は、ネットワークによるものであろう。

もちろん、インターネットがごく当たり前のようにある、今のコンピュータを取り巻く環境とは、全く別の意味である。当時は当時なりに、電線に頼らない伝染というものがあり、パソコンショップが寄合処としての役割を果たしていた。

フロッピーディスクを携えてのショップ通い、情報交換という名のファイル交換は、形態こそ異なれど今も昔も変わりない。情報網としてのネットワークは、当時にも確かに存在していた。ただ、情報の伝搬速度は非常にゆっくりで、かつ限定的なものである。

しかし、そのようなユーザが感じるようなまったり感とは無関係に、アップルの企業としての行き詰まりの影響は、容赦なく襲いかかる。アップルが、起死回生を賭けて発表された Mac OS X の登場により、一度は手に入れた自由度もアップルによって閉じられてしまう。

さすがに以前のような、ユーザによる無茶振りなカスタマイズはなりは潜めたものの、OS 自体がバージョンを重ねるごとに機能を増すことで、パンサー以降はさほど不自由を感じることは少なくなった、という実感はあった。

コンピュータから、より広いモバイル市場を目指して開発された iPhone OS (iOS) 。イベント会場において発表された OS X を採用したという事実とは裏腹に、ファイル管理などに関する手枷足枷感など、デビュー当時の iPhone OS (iOS) に対する感想は、それこそ OS X 以前の黎明期に近いものであった。(対象ユーザ層の裾野を広げるには、必要なアプローチではあるが)

Mac OS 9 以前を使ったことのある者にとっては、OS X でさえ、ピクチャ、ムービー、ミュージックなど OS 側から保存場所を規定されること自体、大きなお世話だと感じたものだが、それさえもない iPhone OS (iOS) がよもや Mac の方に向かって逆風のごとく押し寄せてくるとは、想像もしていなかっただろう。

現状の OS X では、このような OS による分類規定自体が、既に破綻している。

iTunes が動画も扱えるようになってから、俄にそれまでの Music Folder を iTunes Media と改名したところで、所詮ムービーフォルダではなくミュージックフォルダの中にあるわけだから、無駄な足掻きにしか見えない。ましてや、iCloud の保存領域などアプリごとに分けた時点で、使い勝手を大きく阻害していることが、なぜアップルには分からないのだろう。


自分で作った原稿や報告書などを後日編集しようにも、使用したアプリを常に意識していないと開けないようでは、使いやすいとはいえない。あげくに、ファイルを管理することの権利そのもの奪い不可視化するなど、言語道断ではあるまいか。


実際、「書類」フォルダに書類を保存しているユーザは、どのくらいいるのだろう。さまざまなアプリが手前勝手なフォルダを作り散らかし、自分専用になっていない「書類」フォルダである。

アドビのアプリなどインストールしようものなら、「Adobe」と名の付くフォルダを共有フォルダやユーティリティフォルダをはじめ、ありとあらゆる場所に撒き散らす。エイリアスまで含めると、いったい幾つあるのか数える気にもならないほどで、その場所に意味があるとも思えない上に、ファイル名からしておよそ一般ユーザの目からは汚物にしか見えないものばかりである。

もちろん、思い切って捨ててしまえばスッキリするのだが、アプリからはそれなりの報復を受けるので、遠慮しているユーザは少なくない。何のために Application Support というフォルダやパッケージが存在するのか理解していない大馬鹿野郎であり、保存場所を規定するならヤツらにこそ守らせるべきである。ウンコはトイレでしろと、…余談である。

で、大抵のユーザは、書類を見えるところに置いておきたいという心理と、そのようなバカアプリが勝手にフォルダや訳の分からない書類を作らない平穏な場所、デスクトップに書類を保存するようになる。

人によっては、それこそ目がチカチカする、星の数ほどの書類やフォルダで埋め尽くされて、デスクトップピクチャさえ必要のない(あっても見えない)光景を目にすることもある。そんなユーザでも、目的のファイルを探し出すのは Spotlight よりは遥かに早く、なおかつ確実である。(人間の、環境に対する順応性の高さを垣間見る瞬間でもある)

当然のことながら、だいたい画面上の場所やアイコンの色や形で覚えているので、その場所が移動されたり、順序が変わってしまうとパニックになる。が、それもユーザの自由であろう。

もし、このような実態をアップルが知っているなら、iCloud で共有すべき保存領域はデスクトップであり、OS による余計な分類は迷惑であると、気付いても良さそうなモノだが。

ユーザが気にするのは、その書類を作成したアプリケーションの種別ではなく、内容である。動画であろうが、音声であろうが、写真であろうが、手紙であろうが全く関係ない。それが、家族や友人や仕事に関係するモノなら、すべてユーザが自分で決めた場所にまとまってあって欲しいのだ。

ぶっちゃけ、見えるところに置いておきたいという願望を突き詰めると、今そこにある、そのファイルであり、もはやその内容でもなくファイル名なんぞであるはずもない。要するに、見れば分かるという種別であり、内容が分からないから開いて確認したいファイルだってあるし、そんなファイルに付いた名前はたいてい「名称未設定」である。


しょっちゅうインデックスを作り直さないと、全く当てにならない Spotlight や、凝り過ぎてむしろ使いづらい項目の並び順序機能より、もっとスマートな形で「そこにある、あれやこれ」を実現できないのだろうか、と常々思う。


「マイファイル」に出てくるのは、出てきて欲しくないモノばかりだし、メモとリマインダー、カレンダーや連絡先を分けることも、ユーザにとっては本来意味がない。
とりあえず、書いた後にそれがメモなのか、リマインダーなのか、カレンダーなのか、連絡先なのかはユーザが決めれば良いことで、分類なんぞは後から行えば済む話だ。


欲しいのは、自分が作ったモノが確実にそこにあって見える場所であり、分類はそれをしたいユーザに任せておけばよいと思う。そして、そこが iCloud により各ディバイス間で共有したい場所である。


どうも、最近の iOS との統合のしかたを見ると、真逆なアプローチになっているようだ。


ま、Mac OS の歴史を振り返ってみれば、開けば閉じ、閉じればまた開くの繰り返しであり、まるで10年周期で繰り返される、季節の移り変わりを見るようだ。そのような視点から見れば、さしずめ現状の Mac OS は、二度目の冬の時代に突入しようとしているようにも見える。

今後、iOS との統合が進み、アップルの独自開発プロセッサなどが採用されるようになったら、果たして Mac OS に春は来るのだろうか。


…ということで、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.11.12] 春よ来い 〜より転載&加筆修正

2012年11月2日金曜日

アップルの陰謀

自分自身、全くスティーブを信仰しているつもりはないのだが、勝てば官軍負ければ賊軍のように、更迭されたスコットの影響に対して悪評を流すのがトレンドのようになっているのは、いささかうんざりさせられる。

前回「どうせ、スコットはハメられたんだろう」と書いた背景には、今回の更迭騒動には素人レベルで考えても不可解な部分が多すぎる、というのがある。

昨今、やり玉に上げられているマップアプリの問題も、ネット上には批判的な意見が大半をしめている。だが、どのような場合でも擁護派(賛同者)より反対派の方が声が大きいのは、珍しいことではないし、スコットが早々に謝罪文を公表することに対して、過剰反応だと反発しても不思議はない。

だいたい、アップル規模の会社組織において、如何に上級副社長といえども最高経営責任者の承認もないままに、未完成なソフトをリリースできるはずがない。クックの肩書きには、最高という文字も経営責任という文字も入っているように見えるのだが、Chief Executive Officer ってのはいったい何する人なんだろうねえ?

ここからは全くの想像だが、せっかくスティーブの呪縛から開放されたのに、未だにその継承者がいることに我慢できない連中が仕掛けた巧妙(でもないけど)な罠にハマったようにも見える。

現在では、アップルの収益の大半を担う重要な役割をもった iOS 機器。そのソフトウェア部門のトップであるスコット・フォーストールと、ハードウェア・デザイン部門のトップのジョナサン・アイヴ。スティーブはその絶対的な権力のもと、この相容れない二人に相当な権限を持たせることにより上手くコントロールしてきたが、キャプテン・クックには荷が重すぎたようだ。

一時は、イギリスに帰ると駄々を捏ねたとの噂も流れたアイヴ、隠居を表明していたマンスフィールドも、結局はスティーブ不在のアップルで、ミニ・スティーブと揶揄されるスコットとの軋轢に耐えきれなくなって、取締役会に泣きついたのだろう。

アイヴのデザインによる、iPhone 5 の外装が傷つきやすいことが批判の対象になった時、フィル・シラーによって早々に行われた公式見解「それは自然なこと」に対して、マップに関するアップルサイドからの擁護発言は無く、責任者は完全に孤立状態に置かれたに等しい。

Google との契約通りあと1年程度、Siri で実施したようにベータ版として育て上げれば、今回のような批判の対象にならなかったはず。にもかかわらず、Google との契約終了以前に、前バージョンの Google Maps を早々に引き上げて、iOS 6 では継続利用ができないようにした政策に対する説明もない。

おそらく、iOS 6 のリリーススケジュールを急き立てながら、一方では秘密裏にGoogle との契約を終了させ、iOS の責任者として逃げ場をなくしておく必要があった。窮地に追い込まれたスコットが苦し紛れに、以前と同様のらりくらりと逃げおおせると言い出すのは計算通りで、その往生際の悪さを際立たせ不誠実を印象づけること目的であったに違いない。署名捺印に関しては、念のためにトドメを刺したに過ぎないのであろう。(想像、ここまで)

毎度主張していることだが、純正マップはソフトウェアとしての出来自体が悪いわけなく、現状はデータが不足しているだけである。いずれ情報量が増すことによって改善される性質のものであり、要するに時間の問題でしかない。

Google Maps と比べて、どちらが優れているかは関係ない。その他のアプリ同様に選択肢さえあれば、それはユーザが決めることであり、iOS 担当責任者レベルでも、ましてや純正マップ開発チームレベルの問題などでは、全くない。

マップ問題の本質は、従来の Google Maps を使用できなくしてユーザの選択肢を狭め、結果として iOS 機器のユーザ体験の質を低下させた、アップル社自身が行った政策(政治)の問題であることを銘記しておく必要がある。

その最も重要な本質の部分がすり替えられて、突然の謝罪文の発表である。

謝罪文には、Mobile Safari から Google Maps を使えとか、ご丁寧にアップル自ら特集ページまで組んで、もっと出来の悪いサードパーティ製品を推奨するなど、呆れた内容である。そんなこと、わざわざアップルに言われなくても不満のあるユーザは、勝手にやっていることだ。当初は、どうだいこんなのに比べりゃ純正マップの方がマシだろう、と思わせる巧妙な作戦かと思ったぐらいである。

スコットの性格を知る者なら、そんな茶番に署名を求められれば、当然ブチ切れるだろうと容易に想像できるはずだ。ましてや、スティーブの忠実すぎる継承者として、内外から認知されているスコットに対して、アップルの文化に合わないなどという発言が、公然と語られるに至っては何をか言わんやである。

今のアップルの文化とは、いったいどのようなものなのか、猿にも分かるように教えて欲しいものだ。またもやアップルが、80年代に犯した大きな間違いを繰り返そうとしているように見えるが、二度目のラッキーはたぶんないと思う。


おおっと、今月は初っぱななら、二本立てだぜい。



…ということで、ちと飛ばしすぎですが、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.11.03] アップルの陰謀 〜より転載&加筆修正

キモチワルイ、レトロ趣味

スコットネタで、ついでにもう一席。

標的にされているひとつが、iOS のインターフェイスに多用されているスキューモフィック・デザイン(Skeuomorphic Design)である。工芸品や実際のテクスチャなど、現実世界のモチーフをエミュレートしたものというのが定義らしい。スコットはその強い信奉者であり、それはまた、スティーブの要望でもあった。


ここで、ひとつ私見を申し上げておく。それの何処が悪いんだ、と。


おう、MacBook Air のカバーは buzzhouse design のハンドメイドレザーケースだし、iPhone 5 のケースは SPIGEN SGP ヴァレンティヌス/ビンテージ・ブラウンだ、文句あっか?


工芸品のような見かけは時代遅れで、コンピュータのユーザインターフェイスには不必要である、というのが反対する陣営の主たる言い分らしい。要するに、電子ブックが紙でもないのに本の形をしているのはおかしい、と言うことだ。


アップルでは、重鎮であるジョナサン・アイヴがその推進者であり、ことごとくスコットとは衝突していたらしい。
一部のイギリス人にとっては、重厚なデザインの建築物が街中にあふれ返っている景観は見飽きているのだろう。しかし、その反動がミニマルに結びついたというのでは、あまりにも短絡的すぎる気もする

優れた外装デザインと、ユーザインターフェイスではモノが違う。サー・ジョニーの称号を持つアイヴに対して失礼は承知で提言するが、眺める美しさと触れる心地良さが、同じデザインであると考えているのなら、とんでもない思い上がりであるし、何でも統一されりゃいいってもんぢゃない。区別もできない意味のない統一は、かえって混乱を招くだけだし、使って心地良いものはたぶんミニマルとは対局にあると思う。


もちろん、実際のお手並み拝見しないと、勝手な評価は無礼千万極まりないことは、自分で書いていても分かる。しかし、コンピュータの外装に関しては、その手腕に文句の付けようがないと尊敬しているが、あんたがデザインした部屋には絶対に住みたくないとも思っている。ましてや、工芸品のような見かけは時代遅れと一刀両断に斬って捨てられたら、ましてや、外野の方からもレトロ趣味、気持ちワル〜イなどと罵倒されりゃ、腹も立つ。(別に、ジョニーがそう言ったわけぢゃないんだけどね)


iPhone や iPad と Windows Phone の Metro UI を比較してみればわかることだ。
まるで、街頭の看板のようなデザインが画面一杯にちりばめられ、色自体にあまり意味のなさそうなわりに、やたらケバイ色使いは、無駄に疲れると思うが、あれが平気な連中がいるという事実に恐れ入る。ほんと、個人の趣味は多種多様だな。

ただ、この手のインターフェイス論議については、今に始まったことではない。

Macintosh 黎明期のソフトに ジャム・セッション(Jam Session)とかスタジオ・セッション(Studio Session)というがあった。

前者は、ミュージシャンの絵柄をバックに音楽が流れ、そのジャムにキーボードやマウスでサンプリング音源を操作して参加できるというもの。後者は、画面上にまんまカセットテープレコーダを表示し、テープが回る様子まで再現した、ある意味バカバカしいソフトである。当時のモノクロ9インチディスプレイに表示されたそれは、現代のコンピュータグラフィックスを見慣れた者からすれば、アホらしさの極地のような見かけではあったが、その楽しさはそのグラフィックスのクオリティとは無関係である。


もちろん、マックユーザ達には概ねバカウケであたのだが、当然、非マックユーザ(現在のアンチに相当する)連中からは、あらゆるツッコミが入った。極めて無駄の多いインターフェイスであるとか、貴重な資源を浪費する非効率的なプログラムであるとか、それはもうボロクソである。


ま、業務で電子計算機に関わる者から見れば、ウクレレ片手にアロハで企業面接に臨むようなものだから、仕方あるまい。


ただその当時、本心から仕事のために必要だからという理由付けでコンピュータを購入する者は少ない。自家用車でも買えそうな値段のキカイを身銭を切って買うのだから、ビジネスツールというのは資金捻出と周囲(および自分を)の納得させるための口実であり、突き詰めて言えば実際、ほぼ遊び、ただの道楽、むしろ面白そう、みたいな?…だから買うのである。


事実、Mac のそのような機能に対して批判的な連中は、自腹でコンピュータを買ったことがない、または買う気もない者が多かったように思う。公然とコンピュータはゲーム機ぢゃない、といって憚らないし、
コンピュータに対しては期待するのは、処理能力と計算結果のみ。旅行に出掛けてもその行程は苦痛に過ぎず、何処でもドアを欲しがるような、典型的な「ドリルではなく、穴が欲しい」連中だ。

その後に登場した Windows の方が一般に広く受け入れられ、特に業務用という用途では Mac が門前払いに近い状態にあった歴史的事実を見れば、たぶん、今も昔もそんな連中の方が、数的には多いのだろう。つまらんね。


スキューモフィック・デザインに対する、反対派の言い分。

現実世界のモチーフを表現するために機能的に必要でないものまで取り込み、単純にそれは余分なものとなる。無くても済むものはどんどん削り、必要性のみで構成された美しいデザイン、と言いたいのだろう。

余分が必ずしも不要とは思えないが、
もし、今後アイヴ主導でユーザインターフェイスが変更されるとしても、iOS のアップデートの時にアイコン内のギアが回らなくなったら、たぶん怒るヤツは少なくないと思うな。それ自体に意味など、それこそ不必要だ。

スチーム・パンクまでは必要ないにしても(嫌いぢゃないけど)、なにか暖かみや潤いのない寒々しさと、過剰な統一はファシズムの匂いすら感じる。そこはやはり過ぎたるは、であり、ある程度は選択肢で賄うしかないと思うがね。

特に最近の若者は、そのようなアナログ的なモノに対して使った経験もないから、現実を連想させるという効果がない上に、固定観念にとらわれて新しい手法を見いだす可能性を無くすことが、懸念されるらしい。
また、理解できるかどうかは、ユーザーの経験値次第なので、無駄にハードルを上げる必要は無い、と。

直球で受け取れば、まるで交差点で曲がる時にウィンカー出す人最近少ないんだから、出さなくていんぢゃね、みたいなものである。学校教育においてさえ、いまさら古くさい時代遅れな歴史の授業は不必要とでも言いたいのだろうか。だって、恐竜や北京原人なんか実物見たことねえもんな。


最近、iPod の売上げが低迷して、主たるユーザである低年齢層をなんとか、上位の iOS 機器にステップアップさせたい気持ちは判るが、なんでそこまで、幼稚なガキどもに媚を売る必要があるのか、全く理解できない。本来、知らないことの方こそ問題視されるべきで、そのために教育があるんぢゃなかったのか。

もう温故知新という言葉の意味も、教えていないのだろうか。

別に、iOS が教育的である必要はないが、無知な者に基準を合わせてどうするんだ辞書を引けと、ジェド・バートレットも言ってたし、「無知は罪であり、馬鹿は罰である」と、戦場ヶ原ひたぎだって言っているぢゃないか。


…ということで、今月もヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan

[2012.11.03] キモチワルイ、レトロ趣味 〜より転載&加筆修正