2012年12月15日土曜日

ユーザ・インターフェイス

前回の iTunes 11 に対する不満は、ユーザ・インターフェイスに関する考え方の違いが根底にあるように思う。

一つには機能と、もう一方にはデザインがあるように思われがちだが、この両者には密接な関連があり、実は同じものであることが多い。


OS X のウィンドウ左上にある信号のような三つのボタン、ファインダを筆頭に各アプリケーションのウィンドウにも必ず存在する。タイトルバーに相当する位置に横並びがお約束だが、唯一の例外が iTunes の前バージョンでミニプレーヤを選択した時に限り、縦並びになる。アップル自ら犯した掟破りであり、後にも先にも例がない。


で、今回はミニプレーヤにおいてはウィンドウにあらずと勝手なルールをでっち上げたのだろう。縦にも横にも、三つのボタンを配置すること自体を止めてしまった。


ま、それさえアップルの勝手なんだから別に論うつもりも無いのだが、タイトルバーまで無くしたのなら、いっそ iTunes は特別なウィンドウということで、旧来のアクアインターフェイスを止めて、専用のデザインを興せば良いと思う。どうせ、ファインダ上でのファイルの並び方も異なることに対して問題がないと考えているのなら、似て非なるものより混乱は少ないだろう。


仕事柄、いろいろなタイプのユーザをサポートすることが多いが、Macintosh を業務で使用しているユーザには、新しいことを好まない人々も少なくない。


古くからの友人である某商店主などは、頑なに一度覚えた操作法を変えようとはしない。基本的に、ショートカットは使わない。コマンドは、メニューからの選択一辺倒であり、メニューにない機能は無いモノとして片づけられる。目に見えるものが全てであり、見えないものは信用しない、使わない、という点においては徹底している。

新しい機能など迷惑だと言わんばかりで、自分の用途にとって不必要なバージョンアップは、とことん毛嫌いされる。安定こそが命であり、リスクを伴うような多機能化などもっての外である。

業務使用であるからといって、作業効率などは優先順位として必ずしも高いわけではない。たいていは、自身の理解の範囲を超えたモノに関して興味を示すことはなく、言い換えれば身の丈に合った使用法を好み、多少の不便は気合いと根性で乗り切ってしまう強者である。

さしずめ回転寿司なら回っていないモノは食わない、特別な注文などしない。と、まるでレストランの優良顧客のように聞こえるかもしれないが、細かいことには結構注文も多い割に、経営者としては当然のことながら経費に関しては渋チンで、ここだけの話サポート業務にとっては、必ずしも上客とは言いがたい。

かれこれ、十年以上も Macintosh を使用しているわけだから決して初心者ではないが、かといってオッタッキーなパワーユーザでもない。ただ、同じ傾向のユーザでも細かい部分では多少異なり、独自の使用法を編出して(というほど凝ったものでもないのだが)自分なりの効率を保っている。

極論すれば、ユーザの数だけ使用法はあり、同じ機能でも複数のアプローチが可能な柔軟なコマンド体系こそが Mac OS の美点でもあった。ユーザが一度習得した経験から類推して操作をするという、ある意味手探りの操作でさえそれなりに使えることが、日本語で書かれた参考書も少ない黎明期のマックユーザにとって、一助になっていたことは間違いない。

そのような意味では、直感的に把握できるインターフェイスを実現することは、容易ではないが重要である。彼らにとって、シンプルであることは歓迎されて然るべきモノであるが、それは決して存在する機能を隠されることではない。

前述の機能とデザイン、ただシンプルを以て良しとするなら、多機能はその対局にあるものかもしれない。が、実際そう単純なモノでも無い。機能美という言葉があるように、要するに見せ方次第で意外と両立するのである。

卑近な例を挙げれば、オーディオアンプや自動車のデザインに見受けられる。

アンプの場合は、使用頻度の高いヴォリュームコントロールを大きめにして、その他の機能はフタをして隠してしまうというもの。一歩間違うと、大変チープなモノに成り下がってしまう恐れもあり、あまり高級品では採用されないことが多い。

逆に機能を隠すことなく全面に並べても、良いデザイン(個人的に気に入っているだけだが)も存在する。一例を挙げるなら、もう一方のマッキン、McIntosh のコントロールアンプに見られるような、機能美である。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、コントロールするという本来の機能に対して真っ向からアプローチした結果、数多くのスイッチ類をシンメトリーに配置することにより、機能を隠すことなくかつ美しさを損なわず、といった難題をクリアしていると思う。また、対照的にパワーアンプでは、メータを前面に大きく配置し、最小限のスイッチ類でデザインされたそれは、(当たり前だが)並べても全く違和感のない整合性を実現している。

別の例では、Mark Levinson のプリに見られるような、シンプルな美しさである。必ずしもボタンやスイッチ類が少ないわけでもないのだが、全くごちゃごちゃした感じはなくシンプルに見えるのはなぜだろう。

往年の LNP-2L、最近の(でもないけど) No.26L などにも共通しているのは、安物にありがちな回転するツマミ、縦横のスライドスイッチ、上下動のタンブラースイッチなど操作の異なる種類のスイッチ類を混在させない、というポリシーにあると思う。ま、ここのパワーアンプはブラックパネル一色のプリに比べると結構ケバかったりするんだが、少なくともかつてのプリのデザインは良かったと思うな。

McIntosh と Mark Levinson、 デザインポリシーの全く異なる両者に共通したものといえば、シンメトリーなデザインと最少限の種類で構成されたスイッチ類、統一された表面材質も含めたカラーあたりではあるまいか。(と、おいそれとは手を出しにくい価格、という点でも共通するな。かつては、一台でこいつらを軽く上回る価格の Quadra 950 を販売したこともあるが、ある意味良い時代ではあった。余談である。)

単に数を減らせば、シンプルなデザインになるのは当たり前で、機能上必要な数を網羅してもなおシンプル(に見える)なデザインは存在する。ただ、隠せばいいってもんぢゃないという例でもある。

一方、スマートに隠す方の例として、かつてブラウン管時代のソニープロフィールモニタがある。初代の KX-27HF1 は、オーディオアンプにありがちなフタで隠すというある意味安易な方法であった。しかし、二代目以降の KX-27HV1/KX-29HV3 などでは、ボタン自体を自照式にして、普段はほぼ全ての機能を見えなくし、必要な時だけ表示するというもの。既にリモコン操作が当たり前の、その時代のテクノロジーがあってこそ実現できたデザインである。

そのおかげで、高機能でありながら非常にシンプルでなかなかカッコいいデザインに仕上げられており、我が家のテレビは一時こればっかりだった時期もあるぐらいだ。スピーカはおろかチューナさえも内蔵しておらず、たしか別売りで10万円近い値段だったように記憶している。もちろん本体はその三倍ぐらいだったような、…やれ恐ろしや。これも余談である。

ま、なんでも隠しゃいいってもんでもない例は、最近のキヤノンの複合機を見ればわかる。当然あって然るべき機能まで隠してしまうと却って分かりにくく、使い難いだけのデザイン倒れの好例といえよう。(フタで隠すより、自照式にした方がコスト削減になることが主たる理由である、というところまで見え見えなのも、時代のテクノロジーに依るものである)

自動車の場合は、最近めっきりお目にかからなくなってしまったが、リトラクタブルヘッドライトのような、本来有るべきものがその場所に無いことを逆手にとった、隠すデザインの一手法である。

その歴史は古く、1930年代後半まで遡ることができるが、同年代のご同輩にはやはりコルヴェットを筆頭に60年代アメ車だろう。幼少時には強く憧れたもので、しばらくは川津祐介の乗るあの車はマジで空も飛べると信じていたぐらいだ。(コルヴェット自体、当時の国産車のデザインと比べらたら自動車というより、宇宙船に近かったように思う)

ただ、このあたりになると、その機能自体は既に単なる機能では無くデザインその物になっていたし、リトラクタブルにする理由などどうでも良かったので、あまり良い例とは言えないかもしれない。空力の観点から、全面投影面積を少なくするとか、保安基準の制限からなんとかボンネットをより低くするためなど、御託を並べればは数あれど、要するにカッコイイからであり、ある意味デザインの目指す究極の到達地点と言えなくもない。(ガキの頃には、リンカーン・コンチネンタルや、オールズモービル・トロネードでさえ憧れの対象であった)

が、その後国産車に不便を承知で同形式のヘッドライト装備したモノは、概ねライトをアップした状態のマヌケ面ばかりが目立ち、あまりトキメクものは無かったことから、リトラクタブルヘッドライトなら何でも良いというワケでも無い。2灯式の場合はだいたいカエル顔になるのだが、911 のようなカッコ良さは皆無である。

したがって、機能を犠牲にしたデザインなどさほど価値は無く、その上に格好が良くないとなれば本末転倒も甚だしい、というものだ。

iTunes に話を戻せば、ミニプレーヤにおけるボタンの表示/非表示は、より小さな面積で機能を犠牲にしないという点では、それなりに評価できるものである。というか、ポインタを持っていった時のみ再生ボタン等を表示し、通常は再生中のアルバム情報を表示するというアプローチは、優れたもので理にかなっていると言える。

しかし、対するフルサイズウィンドウ時の iTunes のデザインはイマイチ・イマニ・イマサンである。

ミニプレーヤ同様、検索ウィンドウなど虫眼鏡アイコンで十分だと思うし、フルサイズへ復帰するボタン(小さ過ぎて、これまた押し辛い)は左端にあるにもかかわらず、ミニプレーヤへの切替えボタンは真逆に最右端に配置される。

フルスクリーンへの切替えボタンと同様に、なぜあのような半端な位置に並べる意味はあるのか不明だが、双方とも使い難いだけでなく矛盾に満ちたデザインと言わざるを得ない。(タイトルバーを無くしたいのなら、そこにあったものの移転先ぐらい考えとけよな)

中央上部のさほど広くも無い領域に、無理やりアルバムアートワークを表示する(で、サイドバーから削除する)やり方にも疑問が残る。もちろん、そのアイコンサイズのアートワークをクリックすればフルサイズで表示されるのだが、再生中の楽曲に限られる。再生だけでは無く編集機能も使用している iTunes としては、選択中のアルバムアートの確認ができないという点で、使い勝手が大きく犠牲になっている。

また、最近の OS X のバージョンで推奨されるフルスクリーン表示機能との関連性から、マルチウィンドウ化を避けてきた経緯があるにもかかわらず、前述のアルバムアートワークのフルサイズ表示では、フルスクリーンモード時でさえオーバーラップで表示されてしまう。ビデオ再生時のウィンドウも同様で、フルスクリーンモードで不用意に iTunes の背景をクリックしてしまうと、再生画面は臆面も無くバックグラウンドへ隠れてしまう。

追記:ビデオ再生時のウィンドウは、従来のバージョンでも環境設定内の詳細にある「〜常に手前に表示」を選択することで、バックグラウンドへ隠れてしまうことは回避できた。が、本来常に手前に表示がデフォルトであるべきだし、そのような設定項目自体が必要ないはずだ。iTunes ウィンドウ内での表示などの選択は、メニュー項目から無くなり、再生中に右クリしないとできない。

以前は、表示形式にウィンドウ内も選択できたのだが、新しいバージョンでは別ウィンドウのみの一択しかない。フルスクリーンモードとの兼ね合いを考慮すれば、ウィンドウ内表示の方が妥当だと思うが、あらゆる点においてインターフェイスの基本方針がブレまくりなのも気になる。

いったいアップルとしては、何をどうしたいんだと…。

今回のバージョンアップにより、カラムブラウザの表示機能に掛けられていた制限は、ある程度緩和されたようだが、そもそもなんでそんな意味のない制限を掛ける必要があったのか、理解に苦しむ。

リリースが一ヶ月近く遅れたのも、実装機能の整合性を調整することが理由として考えられるが、基本的なデザインを見るにつけ過渡期の製品にありがちなやっつけ仕事の匂いがあちこちに漂う、今回の iTunes 11。


ちなみに、アクアインターフェイスこそ、スコット・フォーストールの置き土産であり、この呪縛から逃れようとするなら、根底からの改革が必要になるだろう。


まさか、この矛盾に満ちたデザインが、サー・ジョニーのなせる技などと思いたくもないが、デザイン面で腕を振るうなら今こそ、その時であると言いたい。


わお〜、またもや連チャンだぜい。



…ということで、今年いっぱいヒトツよろしく。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan 


http://www.hexagon-tech.com/
[2012.12.14] ユーザ・インターフェイス 〜より転載&加筆修正

不機嫌な沈黙

iTunes 11 アップデート ver. 11.01 (12)
標題は、TidBITS 日本語版最新号からのパチリであるが、最近のアップル製品にユーザが感じている鬱屈感を上手く表している言葉だと思う。

ユーザインターフェイスに関して、ウェブブラウザなどの場合は、主たるは表示されるコンテンツでありその機能は脇役であるので、Safari などのボタンなどがモノクロなのは当然であるとしても、ジュークボックスたる iTunes では主役の音楽自体、主にユーザの聴覚に訴えるのだから、視覚を担当するプレーヤがあまり地味では、面白味がない。

したがって、かつての MP3 黎明期に多数存在したミュージックプレーヤソフトにありがちな、安物のカーステレオのようなケバくチャラい外観はご免被りたいが、今回のような作品としてのアルバムを見せる(魅せる)アップデートに関しては、個人的には許容範囲でありなにも問題はないと思う。

が、細かく見ればそう単純に喜んでもいられない事実に気がつく。

一見シンプルな外観を保っていながら、実際に使用してみると、これだけ雑然とした印象を与えるインターフェイスも珍しい。

山猫では、iTunes 11 のサイドバーアイコンではカラーで、Finder のサイドバーアイコンはモノクロという、スノレパ上で iTunes 10 を使用していた時と、全く逆になっている。標準書体も、またもや Lucida Grande から文字間ピッチの狭い Helvetica と思しきものに変更されたようで、せっかく前回見やすくなったのに後退である。

あまり意味のない変更を繰り返すぐらいなら、表示書体ぐらいユーザの選択に任せりゃいいだろうが、と思う。相変わらず迷走を続ける、OS X のユーザインターフェイスを象徴するかのようである。

サイドバーのカラーアイコンや、今回のアップデートにより復活した「重複する項目の表示」なども歓迎すべきことではあるが、元々あったものなんだから、さほど褒められたものでもない。

しかし、外観上未だに明るい背景以外の選択肢は無く、今一つ二つ、不満も残る。加えて、iTunes のミュージック(およびビデオ)プレーヤと並ぶもう一つの側面である、音楽管理ソフトとしての機能についての不満が多い。

サイドバーの表示/非表示はユーザの任意であるので、必要に応じて切替えれば良いのだが、従来サイドバーに表示できていたアルバムアートの表示機能を廃止している。

おかげで、アルバムアートの登録手順が煩雑になってしまった。特に、新たに取り込んだアルバムへ既存のアルバムからアートワークを流用しようとすると、かなりトリッキーな技が必要になる。

本来、ダイアログ内などで表示されるテキストに対しては、右クリが無効な上にメニューにはコピー機能が表示されていなくても、コマンド+Cが有効であることはたまにある。が、まさか iTunes で割と頻繁に使用されるアルバムアートワークの編集機能に関して、制限を掛ける必要があるとも思えない。それに気付くまでに少し時間がかかっただけなんだが、これってストアから音楽を購入しない者に対する嫌がらせなんだろうか?

従来より、サイドバーではアートワークの表示/非表示機能を持っていたのだから、さほど邪魔になるモノでもないし、サイドバーそのものを非表示にできるのだから、余計なことをする必要はあるまい。同一アルバム内でも、楽曲単位で異なるアートワークを設定することもあるので、選択した曲のアートワークを確認するだけでも余計な手間がかかるような変更は頂けない。

元からある機能を犠牲にすることなく、新しい機能を追加することは十分に可能であり、それを如何にシンプルに見せるかがデザイナーとして腕の見せ所であるはずだ。機能を削ることがシンプルへの近道だと考えているなら、それは単なる手抜きでしかない。

少なくとも、かつてのアップル製品の伝統であった、直感的な操作とは程遠いシロモノであることは間違いない。

なぜアップルがこうも毎回毎回、従来からのユーザの神経を逆撫でし、わざわざ反感を買うことが明らかなことを好んでするのか、その明確な理由は分からないが、このあたりが毎度メジャーアップデートの度に戦々恐々とさせられる所以である。

また、ミニプレーヤへの切替えボタンも、従来ズームボタン(緑)を流用するという、掟破りな設定を長年ゴリ押ししておきながら、iTunes 9 で様子見のつもりか、一時的に変更したことがある。

個人的には、ズームボタン本来の姿なのだから、タイトルバーのダブルクリックや、それなりの代替機能やボタンなどを用意すればそれで良いと思っていた。だが、あまりに反感が多かったのかその後元に戻されたという経緯がある、アップルにとっては鬼門でもある。

今回、ほとぼりが覚めたとみて、またもやの変更である。それもタイトルバーを無くした上で、半端な位置に半端なデザインで、当然思いっきり使い難い。ショートカットなどは、ご丁寧にオプコマ+Mとオプコマ+3の二本立てである。オプコマ+Mはミニプレーヤへの切替えだからまだ理解できるが、フルサイズウィンドウを表示した上にまだミニプレーヤを表示するなどという呆れた機能など、いったい何処のバカが考え出したのだろう。

デバイスおよび楽曲の管理という点においても、インターフェイスがイマイチな点は多い。

まずは、iOS 機器を有線/無線に限らず接続した時、使用状況を表す棒グラフに詳細情報が表示されない。いちいち該当の場所にポインタを持っていかないと表示されないというお粗末なものであり、一瞥で概略を把握できていた従来の表示機能に遥かに劣るものである。

本来ヘルプ的な要素には用いられる手法であるが、情報を表示するべき画面で情報を隠すことに、いったい何の意味があるのだろうか。

アプリにデータを登録する画面でも、未だにファイル単位のみでフォルダ単位では選択できない。複数ファイルの選択は、シフトまたはコマンド+クリックが必要になる。また、iPhoto から写真を登録する場合も、アルバムは何度閉めても選択の度に全開であり、アルバム数が多いと選択に苦労させられるところもなども、相変わらずだ。

ただ一つ、何も変更していないにもかかわらず、App タブを選択しただけで「変更を反映させるか」などと聞かれなくなった点のみは、改善されたようだ。

デフォルトのサイドバー非表示状態では、音楽や動画は完全に分離され、新たに増えたホームビデオなどの分類など詳細なタグを管理していないと、不慣れな者は目的のものを探し出すのに苦労するだろうな、ということが容易に想像できる。(たぶん、iTunes Store での購入者に、焦点を絞ったに過ぎない変更なんだろうけどね)

iOS 版のミュージックアプリでも指摘したことであるが、リスト上部に並ぶボタンは、プレイリスト以外では表示形式も変更できない、ただの並べ替え機能に過ぎない。そんなモノは、一覧表示で項目名をクリックすれば出来ることであり、わざわざボタンを設置する程のものでもない。どうせ、単にリスト上部に隙間が出来たから、並べてみただけだろう。

また、ステータスバーに表示される項目数などの表示も、以前はクリックすることで表示方法を変更できていたが、これも機能しない。ただ、不思議なのは iTunes 10 からアップデートした時に、最後に表示されていた状態で、固定されているように見える。

別のMacをアップデートする時、試しにあえて別の表示を選択したものとは異なる表記になっていることから、単に機能を実装し忘れた可能性もある。が、残念ながら今回のアップデートでは復活しなかった。


ま、最近のアップルを見ていると、そのこと自体に気付いているかどうかも、かなりあやしい気もするが、…。


一見新しく見える iTunes 11 のインターフェイスも、事細かに使用してみるにつれ、今迄あった機能にわざわざ制限をかけて、別の分かりにくい機能を追加することで、構成されていることが分かる。

要するに、何をするにもことごとく遠回りを強いられ、およそシンプルとは対局にあるインターフェイスと言わざるを得ない。この点においても、直感的な操作からどんどん遠ざかっており、ユーザが従来の経験から得たものを全く無駄にしている。

よもや、今後 OS X 全般にわたって、このような無意味で無駄な変更が行われることが無いよう、ただただ祈るばかりである。

アップルが行うイベントで、発表される売上げなどの業績と異なり、ネガティブな印象というものは、単純な数値の多寡では計れないモノが存在する。朝令暮改で安易な仕様変更、いつまでたっても修正されないバグや意味のない機能制限など、あまり既存のユーザを舐めていると、いずれ有用なフィードバックさえ得られなくなる。

念のために言っておくと、ドザな連中は無償でダウンロードできることで iTunes が只だと思っているかもしれないが、iTunes は OS X の基本機能であり Mac を購入するに当たってその料金に含まれているソフトウェアである。バンドルされているからといって、マックユーザとっては決して無料ソフトなどではない。

したがって、iTunes Store を利用しないマックユーザでも遠慮は要らない(と、思う)。文句があったら、ハッキリと言ってやろう。

そしてアップルには、文句を言うヤツが減ったことや、だれも何も言わなくなったことを、単純に受け入れられたとか賛同を得られたと勘違いしていると、いつかしっぺ返しを喰らうことになるぞ、とエラそうに上から目線で言っておこう。

新たな製品、新たなバージョンが発表される度に、各方面で賛否両論、話題には事欠かないアップル製品ではあるが、称賛も非難も騒がれているうちが華である。

アップルは、たかが地図ごときで大騒ぎしている、声だけは大きな連中よりも、もう少し不機嫌な沈黙にも注意を払うべきだと思うな。


…ということで、ヒトツよろしく。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan

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[2012.12.14] 不機嫌な沈黙 〜より転載&加筆修正

2012年12月7日金曜日

やっぱ、時計はスイスだ!

アップルがパチリ切れていなかった、SBB の公式時計について、その動作を見事なまでに再現した、iOS アプリがある。

SwissRailwayClock 2.0.1(無料)というものだが、このグラフィックスには感激する。

起動時には、必ず全ての針が重なった位置から現在時刻に配置されたり、縦横を切り替える時にインデックスはそのまんまで、針のみが回転するギミックも面白い。また、ハンズの微妙なテーパ形状やインデックスにちゃんと届いている秒針、夜の時間帯になると変わる照明の色合いなども、なかなか味わい深い。

極め付けは、オリジナルと同様に秒針が毎分12時の位置にきた時には一秒少々止り、分針がおもむろに一分進んでから再度秒を刻み始めるのだが、その時の止まり方が堂に入っている。それこそ、カクンと音が聞こえてきそうなほど、秒針も長針も震えるのである。

もちろん、その分遅れが発生するので、再び動き出してから都合約58秒程度で一周するという、まったく細かいことは気にしない大らかな仕様である。

で、いろいろ調べてみると、この掟破りな仕様にはそれなりの深〜いワケがあるらしい。

スイス国鉄のステーションクロックが誕生した1940年代には、その当時の機械的な精度から、各駅に設置している時計に微妙なズレが発生することが避けられなかった。

そのズレを修正するために、親時計を設置して各駅の子時計を制御し、一元管理する方法が採られた。各駅の子時計は秒針が約58.5秒かけて1周し、0秒の位置で一端停止。その後、親時計からの制御信号を受けて各駅の時計が一斉にまた時を刻み始めるという、全ての時計を正確に合わそうとした、聞くも語るも涙の苦労話があるらしい。


ま、何処の国の列車も発車時刻が、×時×分59秒なんてのはないだろうし(1.5秒ほど早く発車することになるけどね)、だれも正確な時計など持ち合わせていない時代だから、これはこれで正解なんだろう、と納得させられてしまう。かつては、銀行強盗だって犯行前には「時計を合わせよう」が合言葉になっていたのだが、最近はあまり聞かれなくなった。


Stop to Go と呼ばれるトリッキーな動作にも、そんな背景があったことを知れば、あまり好みのデザインではないと思っていたモノにさえ、何となく愛着を感じるから不思議なものだ。(欲を言えば、中心軸の描写が欲しい)

アップルも、どうせパチるならここまでやればリスペクトと言えただろうに…。と、最近のアップルに感じる残念感ばかりが気になる、今日この頃。

表面だけを真似た純正クロックと比較すれば、機能上必要ないからといって余計なものを取払ってしまうと、いかにつまらないモノになってしまうかを示す好例といえる。

おおっと、今月も初っぱなから二本立てだぜい。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan

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[2012.12.07] やっぱ、時計はスイスだ! 〜より転載&加筆修正

iTunes 11

まいど、恒例になっている iTunes の目が点になる仕様変更、今回も各所で悲鳴が上がっているようだ。

例によって、またもや背景色は白に戻され、暗い色の選択肢は無くなった。あとから苦情が出ることが分かっていながら、なんでアップルは懲りもせずおんなじことばかり繰り返すんだろう。

デフォルトでサイドバーを隠してみたり、プレイリストを選択した場合にはカラムブラウザを編集できないなど、多くの矛盾点が存在する。また、アルバムアートの表示サイズやソート順序ぐらい、ユーザに選ばせてもバチはあたるまい。

iTunes 9 当時に物議を醸した、ミニプレーヤへの切替え機能もいかにも使いにくそうな右上の隅っこに、フルスクリーンモードとならべて不細工に設置したボタンでお茶を濁す始末である。最近の大型画面のマックにおいては、もともと表示モード切替えボタンがあった検索窓の周りにはスペースが十分にあるんだから、もっと分かりやすく使いやすいボタンを配置すりゃあいいだろうが、と思う。

いったい、何を考えてユーザインターフェイスをデザインしているのか、全く理解できない。

ちなみに、サイドバーはファインダと同様にオプコマ+Sで表示/非表示できるのでさほど困るわけでもないが、新しい機能を見せびらかしたいがために、ユーザの選択肢を奪ってまで、押しつけがましくも使用法を制限するやりかたには、まいど腹が立つ。

ま、メジャーアップデートの最初のバージョンだから、ユーザの苦情の多い順に改善されるものと考えているが、開発陣にはもう少し学習機能を働かせてもらいたいものだ。少なくとも現バージョン(11.0 163)では、本来できるはずのことができないことが多い。

ただ、最近のワイド画面に則したエリアの有効利用という点においては、多少改善された部分も有り、いずれ各方面から裏技的なモノも含めて善後策が披露されるものと予想されるので、気長に構えるしかないのだろう。


…ということで、今月もヒトツよろしく。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan

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[2012.12.07] iTunes 11 〜より転載&加筆修正

2012年11月14日水曜日

やっぱ、時計はスイス?

アップルがパチったとされる、スイス連邦鉄道(SBB)の時計。個人的には、あまり好みのデザインではない。

客観的に見ても、真っ赤な団子が秒針の先っぽにぶらさがっているようなデザインはいただけない。なんというか、こうバランスが悪いというかキモチワルイというか、針って呼ぶぐらいなんだから先っぽはトンガっていて欲しい。 指示側が逆ならまだしも、せっかく文字盤に書き込まれたインデックスの意味がないだろう。

以前、DVD レンタル店で借りてきたディスクには、必ずと言っていいほどその店の管理番号が書かれたシールが貼ってあった。店舗によっては、ディスクの外周に近い所に、無造作に貼り付けてあることがある。普通に DVD プレーヤで再生する分には、580〜1,400rpm 程度なのでさほど問題は無いのだが、Mac の内蔵ドライブなどでは、エラーになることが多々ある。

コンピュータ用の光学ドライブの回転数は 5,000〜10,000rpm と、下手するとハードディスク並の高速回転になるので、僅かな偏心でさえスピンドルには大きな負担が掛かり、最悪の場合故障に繋がる。最初はリッピング防止の為に、ワザとやっているのかとも思ったが、やる奴はシールを剥がしてでもやるので、あまり防止効果は期待できない。その上、善良な一般客にとっては、嫌がらせにしかなっていない。

おそらく、バイト君が何も考えずに適当に貼った結果だろうが、この手の作業に対してもある程度メカ的な知識があれば、なるべく影響の少ない内周寄りに貼るとか、同じようなシールを反対側にも貼るなどの工夫があって然るべきである。残念ながら、そんなものは一度もお目にかかったことはない。

古来より時計の針というのは、重量バランスを取る意味でオモリとなるべく、指示する側の反対には何らかの飾り物をあしらうことは多い。針の重心が回転軸付近に一致して、メカニズムに余計な負担を掛けないように設計するのが、言わばお約束のようなものである。

暗いところでも時間が分かるように、夜光塗料などを塗布されたものには、指針側にあえてインデックスを持たせた形状のものはあるが、特に秒針に関して反対側に全くバランスを取ろうとしたカケラも見えない針も珍しい。いっそ中心軸から反対側へのオーバーハングをゼロにすれば、それはそれでアンバランスの妙と言えなくもないが、その点ではツッコミが足りない中途半端なデザインだと思う。

また、計測機器のなど場合、指針とインデックスは重なり合うことが必修とされるらしいが、時計でコレをやられるとなんとなくダサイ。テスターぢゃねえんだから、触れるか触れないかギリギリ一致する程度が最も美しいバランスだと思うが、スイス国鉄の時計はあまりにも両者が離れすぎて、マヌケであると言わざるを得ない。どうせパチるなら、相手を選べと言いたい。(思いっきり、個人的見解)

訂正:秒針が届いていないのは、アップルの半端な模倣のせいでした。ここに訂正し、関係各位には失礼をお詫びいたします。

加えて、その針の動作も奇抜である。秒針が12時の位置で一瞬(というには、あまりにも長い時間)止まり、おもむろに長針が一分進んだ後に、やおら動き出すいうというものだ。かつて、我が国の国鉄の駅にある時計も、正時になった瞬間に長針が分を刻む動きをしていたように記憶する。ただ、あれは秒針の無い2針であったので、さほども気にもならなかったが、スイス国鉄はこれを3針でやっているんだから、違和感有りまくりである。

その時点で発生する遅れを、いったいどのように取り戻しているのか、それともわざと進めておいて調整しているのだろうか、など気になりだすと夜も寝られなくなる、まことに掟破りな時計である。どうせパチるなら、そこまでやれと言いたい。(きわめて、個人的見解)

そのような点においても、たしかに特徴的なデザインではあるので、目立ち度ではナカナカのものなのだろう。アップルが無断でパチった時計として、一躍有名になったのは間違いないと思う。たぶん、モンディーン(MONDAINE)の今年の売上げは例年になく絶好調だろうし、スイス国鉄にはアップルから予想外の大金は入るで、両者とも密かに喜んでいるに違いない。

iPad の画面上にグラフィックスとして表示される時計の針は、実質質量はゼロであり、機能上何の問題があるわけでもない。たとえ、針の先に16tと表記された錘がぶら下がっていようが、ミッキーマウスの手になっていようが、勝手にしやがれである。

だが、スイス国鉄はメカニカルなアナログ時計でこのデザインを採用している訳だから、その針は質量ゼロなわけでもない。やっぱ、見た目上これってどうよという気持ちになる時計フェチも、少なからず居るのではあるまいか。


こと見た目に関しては、多種多様な個人の趣味趣向、好みがあるのだが、デザインと言うモノは視覚に訴えるバランスが重要であると思う。本来の姿を知らずしてなされたアレンジや、意味のない改変によって作り出されたゲテモノばかりが、世に溢れている。気にしない人が多いからといって、そちらが基準になるような傾向は、まことに情けない話ではある。


iOS のカレンダーに表示される数字が、バランスを崩しているように見えるにもかかわらず、全く修正する気もないような最近のアップルに、その辺を期待するのは間違いかもしれないが、数値だけを頼りに作り上げたモノは、所詮その程度でしかない。

結局は、モチーフとなったオリジナルのメカニズムを理解した上で、とことん拘り昇華された形の方が、より美しいような気がする。

スイス国鉄の時計が、けっしてゲテモノだとは思わないが、アップル製品もこのまま細部への拘りをいい加減にしていると、いずれはお勤め品の群れの中に埋もれてしまうだろう。おかげで、最近のアップル製品、数だけは良く売れるのかもしれないが、…。

しっかしまあ、あれだけ彼方此方で訴えたり訴えられたりしておきながら、なんでわざわざ盗用までする必要があったのか不可解な点が多い。また、その特徴的なデザインから、断りもなくパチりゃ訴訟になることは猿でも分かる。(単なるバカなのか?)

要するに、17億円も払うぐらいなら、オリジナルデザインを興してもよかったんぢゃあるまいか。なんなら、ウチが半値以下で請負ってあげてもいいと考えているし、その辺の事情に詳しい方(フィル・シラーあたり)に、ぜひその経緯を説明して欲しいものだ。

たかが時計、されど時計である。

時計に関して我が身を振り返れば、故障した自動巻き時計の修理代捻出に窮するあまり、激安パチモンに手を出しては痛い目を見る、今日この頃。

ある程度予想していたこととは言え、真当なお値打ち品とそれなりのお勤め品には雲泥どころではない、想像を絶する差があることを身を持って痛切に感じている。

ま、サムスンから10億ドル、HTC から2億ドルも巻上げたらしいし、アップルにとって 2,000万ドル程度の端た金は、スイス国鉄に対する寄付みたいなもんだろう。

それにしても一般的に考えて、会社に17億円もの損害を与えた取締役は、フツー只では済まんよな。ひょっとして、スコットはコイツのせいで…、まさかねえ。



…ということで、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan
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[2012.11.14] やっぱ、時計はスイス? 〜より転載&加筆修正

2012年11月12日月曜日

春よ来い

Mac OS 改め OS X も 2001年のファーストバージョン以来、そろそろ12年目に突入しようとしている。

以前、スティーブはOS(ソフトウェア)の寿命は10年程度であり、大きな改革によって更新がなされないと生き残れない、みたいな説を持論としていたように思う。そろそろ、賞味期限が切れてんぢゃねえのかコレ、と感じることも少なくない最近の Mac OS について。

新たな10年の入り口かと期待されたライヨンも、1年程度でその役割を終え勢い山に登ってみたものの、既に10.9の噂も聞こえて来る。次は、海に潜るのかそれとも空を飛ぶのかは与り知らぬところではあるが、OS 11 になれば何かが変わるのだろうか。

10余年前に Mac OS X を初めて見た時の、あの期待と絶望の狭間で揺れに揺れ、眩暈すら覚えたような衝撃にまたもや襲われるのだろうかと思うと、今から楽しみでもあり憂鬱でもある。

OS X 以前からの Mac ユーザでさえ、もう既に忘却の彼方かもしれないが、初期のMac OS には正式な呼び名もない、Macintosh のオマケみたいなものであった。

今では俄に信じられない話ではあるが、ユーザが新たにフォルダを作る機能さえもない。起動ディスクには、システムフォルダと共に空フォルダ(empty folder)がひとつだけあって、これを複製して使えという、まるで冗談みたいなシンプルさである。

その後、アップルからも開発者向けにリソースエディタ(ResEdit)なども配布されたこともあり、有志(マニア)によるカスタマイズ文化が形成され、安定度と引き換えに自由度は広がっていった。スタンドアローンな環境に対して、さほど違和感もなく使っていた時代であるが、初期のマックOSに感じた、狭い場所に閉じ込められたような閉塞感は希薄であった。

その主たる要因は、ネットワークによるものであろう。

もちろん、インターネットがごく当たり前のようにある、今のコンピュータを取り巻く環境とは、全く別の意味である。当時は当時なりに、電線に頼らない伝染というものがあり、パソコンショップが寄合処としての役割を果たしていた。

フロッピーディスクを携えてのショップ通い、情報交換という名のファイル交換は、形態こそ異なれど今も昔も変わりない。情報網としてのネットワークは、当時にも確かに存在していた。ただ、情報の伝搬速度は非常にゆっくりで、かつ限定的なものである。

しかし、そのようなユーザが感じるようなまったり感とは無関係に、アップルの企業としての行き詰まりの影響は、容赦なく襲いかかる。アップルが、起死回生を賭けて発表された Mac OS X の登場により、一度は手に入れた自由度もアップルによって閉じられてしまう。

さすがに以前のような、ユーザによる無茶振りなカスタマイズはなりは潜めたものの、OS 自体がバージョンを重ねるごとに機能を増すことで、パンサー以降はさほど不自由を感じることは少なくなった、という実感はあった。

コンピュータから、より広いモバイル市場を目指して開発された iPhone OS (iOS) 。イベント会場において発表された OS X を採用したという事実とは裏腹に、ファイル管理などに関する手枷足枷感など、デビュー当時の iPhone OS (iOS) に対する感想は、それこそ OS X 以前の黎明期に近いものであった。(対象ユーザ層の裾野を広げるには、必要なアプローチではあるが)

Mac OS 9 以前を使ったことのある者にとっては、OS X でさえ、ピクチャ、ムービー、ミュージックなど OS 側から保存場所を規定されること自体、大きなお世話だと感じたものだが、それさえもない iPhone OS (iOS) がよもや Mac の方に向かって逆風のごとく押し寄せてくるとは、想像もしていなかっただろう。

現状の OS X では、このような OS による分類規定自体が、既に破綻している。

iTunes が動画も扱えるようになってから、俄にそれまでの Music Folder を iTunes Media と改名したところで、所詮ムービーフォルダではなくミュージックフォルダの中にあるわけだから、無駄な足掻きにしか見えない。ましてや、iCloud の保存領域などアプリごとに分けた時点で、使い勝手を大きく阻害していることが、なぜアップルには分からないのだろう。


自分で作った原稿や報告書などを後日編集しようにも、使用したアプリを常に意識していないと開けないようでは、使いやすいとはいえない。あげくに、ファイルを管理することの権利そのもの奪い不可視化するなど、言語道断ではあるまいか。


実際、「書類」フォルダに書類を保存しているユーザは、どのくらいいるのだろう。さまざまなアプリが手前勝手なフォルダを作り散らかし、自分専用になっていない「書類」フォルダである。

アドビのアプリなどインストールしようものなら、「Adobe」と名の付くフォルダを共有フォルダやユーティリティフォルダをはじめ、ありとあらゆる場所に撒き散らす。エイリアスまで含めると、いったい幾つあるのか数える気にもならないほどで、その場所に意味があるとも思えない上に、ファイル名からしておよそ一般ユーザの目からは汚物にしか見えないものばかりである。

もちろん、思い切って捨ててしまえばスッキリするのだが、アプリからはそれなりの報復を受けるので、遠慮しているユーザは少なくない。何のために Application Support というフォルダやパッケージが存在するのか理解していない大馬鹿野郎であり、保存場所を規定するならヤツらにこそ守らせるべきである。ウンコはトイレでしろと、…余談である。

で、大抵のユーザは、書類を見えるところに置いておきたいという心理と、そのようなバカアプリが勝手にフォルダや訳の分からない書類を作らない平穏な場所、デスクトップに書類を保存するようになる。

人によっては、それこそ目がチカチカする、星の数ほどの書類やフォルダで埋め尽くされて、デスクトップピクチャさえ必要のない(あっても見えない)光景を目にすることもある。そんなユーザでも、目的のファイルを探し出すのは Spotlight よりは遥かに早く、なおかつ確実である。(人間の、環境に対する順応性の高さを垣間見る瞬間でもある)

当然のことながら、だいたい画面上の場所やアイコンの色や形で覚えているので、その場所が移動されたり、順序が変わってしまうとパニックになる。が、それもユーザの自由であろう。

もし、このような実態をアップルが知っているなら、iCloud で共有すべき保存領域はデスクトップであり、OS による余計な分類は迷惑であると、気付いても良さそうなモノだが。

ユーザが気にするのは、その書類を作成したアプリケーションの種別ではなく、内容である。動画であろうが、音声であろうが、写真であろうが、手紙であろうが全く関係ない。それが、家族や友人や仕事に関係するモノなら、すべてユーザが自分で決めた場所にまとまってあって欲しいのだ。

ぶっちゃけ、見えるところに置いておきたいという願望を突き詰めると、今そこにある、そのファイルであり、もはやその内容でもなくファイル名なんぞであるはずもない。要するに、見れば分かるという種別であり、内容が分からないから開いて確認したいファイルだってあるし、そんなファイルに付いた名前はたいてい「名称未設定」である。


しょっちゅうインデックスを作り直さないと、全く当てにならない Spotlight や、凝り過ぎてむしろ使いづらい項目の並び順序機能より、もっとスマートな形で「そこにある、あれやこれ」を実現できないのだろうか、と常々思う。


「マイファイル」に出てくるのは、出てきて欲しくないモノばかりだし、メモとリマインダー、カレンダーや連絡先を分けることも、ユーザにとっては本来意味がない。
とりあえず、書いた後にそれがメモなのか、リマインダーなのか、カレンダーなのか、連絡先なのかはユーザが決めれば良いことで、分類なんぞは後から行えば済む話だ。


欲しいのは、自分が作ったモノが確実にそこにあって見える場所であり、分類はそれをしたいユーザに任せておけばよいと思う。そして、そこが iCloud により各ディバイス間で共有したい場所である。


どうも、最近の iOS との統合のしかたを見ると、真逆なアプローチになっているようだ。


ま、Mac OS の歴史を振り返ってみれば、開けば閉じ、閉じればまた開くの繰り返しであり、まるで10年周期で繰り返される、季節の移り変わりを見るようだ。そのような視点から見れば、さしずめ現状の Mac OS は、二度目の冬の時代に突入しようとしているようにも見える。

今後、iOS との統合が進み、アップルの独自開発プロセッサなどが採用されるようになったら、果たして Mac OS に春は来るのだろうか。


…ということで、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.11.12] 春よ来い 〜より転載&加筆修正

2012年11月2日金曜日

アップルの陰謀

自分自身、全くスティーブを信仰しているつもりはないのだが、勝てば官軍負ければ賊軍のように、更迭されたスコットの影響に対して悪評を流すのがトレンドのようになっているのは、いささかうんざりさせられる。

前回「どうせ、スコットはハメられたんだろう」と書いた背景には、今回の更迭騒動には素人レベルで考えても不可解な部分が多すぎる、というのがある。

昨今、やり玉に上げられているマップアプリの問題も、ネット上には批判的な意見が大半をしめている。だが、どのような場合でも擁護派(賛同者)より反対派の方が声が大きいのは、珍しいことではないし、スコットが早々に謝罪文を公表することに対して、過剰反応だと反発しても不思議はない。

だいたい、アップル規模の会社組織において、如何に上級副社長といえども最高経営責任者の承認もないままに、未完成なソフトをリリースできるはずがない。クックの肩書きには、最高という文字も経営責任という文字も入っているように見えるのだが、Chief Executive Officer ってのはいったい何する人なんだろうねえ?

ここからは全くの想像だが、せっかくスティーブの呪縛から開放されたのに、未だにその継承者がいることに我慢できない連中が仕掛けた巧妙(でもないけど)な罠にハマったようにも見える。

現在では、アップルの収益の大半を担う重要な役割をもった iOS 機器。そのソフトウェア部門のトップであるスコット・フォーストールと、ハードウェア・デザイン部門のトップのジョナサン・アイヴ。スティーブはその絶対的な権力のもと、この相容れない二人に相当な権限を持たせることにより上手くコントロールしてきたが、キャプテン・クックには荷が重すぎたようだ。

一時は、イギリスに帰ると駄々を捏ねたとの噂も流れたアイヴ、隠居を表明していたマンスフィールドも、結局はスティーブ不在のアップルで、ミニ・スティーブと揶揄されるスコットとの軋轢に耐えきれなくなって、取締役会に泣きついたのだろう。

アイヴのデザインによる、iPhone 5 の外装が傷つきやすいことが批判の対象になった時、フィル・シラーによって早々に行われた公式見解「それは自然なこと」に対して、マップに関するアップルサイドからの擁護発言は無く、責任者は完全に孤立状態に置かれたに等しい。

Google との契約通りあと1年程度、Siri で実施したようにベータ版として育て上げれば、今回のような批判の対象にならなかったはず。にもかかわらず、Google との契約終了以前に、前バージョンの Google Maps を早々に引き上げて、iOS 6 では継続利用ができないようにした政策に対する説明もない。

おそらく、iOS 6 のリリーススケジュールを急き立てながら、一方では秘密裏にGoogle との契約を終了させ、iOS の責任者として逃げ場をなくしておく必要があった。窮地に追い込まれたスコットが苦し紛れに、以前と同様のらりくらりと逃げおおせると言い出すのは計算通りで、その往生際の悪さを際立たせ不誠実を印象づけること目的であったに違いない。署名捺印に関しては、念のためにトドメを刺したに過ぎないのであろう。(想像、ここまで)

毎度主張していることだが、純正マップはソフトウェアとしての出来自体が悪いわけなく、現状はデータが不足しているだけである。いずれ情報量が増すことによって改善される性質のものであり、要するに時間の問題でしかない。

Google Maps と比べて、どちらが優れているかは関係ない。その他のアプリ同様に選択肢さえあれば、それはユーザが決めることであり、iOS 担当責任者レベルでも、ましてや純正マップ開発チームレベルの問題などでは、全くない。

マップ問題の本質は、従来の Google Maps を使用できなくしてユーザの選択肢を狭め、結果として iOS 機器のユーザ体験の質を低下させた、アップル社自身が行った政策(政治)の問題であることを銘記しておく必要がある。

その最も重要な本質の部分がすり替えられて、突然の謝罪文の発表である。

謝罪文には、Mobile Safari から Google Maps を使えとか、ご丁寧にアップル自ら特集ページまで組んで、もっと出来の悪いサードパーティ製品を推奨するなど、呆れた内容である。そんなこと、わざわざアップルに言われなくても不満のあるユーザは、勝手にやっていることだ。当初は、どうだいこんなのに比べりゃ純正マップの方がマシだろう、と思わせる巧妙な作戦かと思ったぐらいである。

スコットの性格を知る者なら、そんな茶番に署名を求められれば、当然ブチ切れるだろうと容易に想像できるはずだ。ましてや、スティーブの忠実すぎる継承者として、内外から認知されているスコットに対して、アップルの文化に合わないなどという発言が、公然と語られるに至っては何をか言わんやである。

今のアップルの文化とは、いったいどのようなものなのか、猿にも分かるように教えて欲しいものだ。またもやアップルが、80年代に犯した大きな間違いを繰り返そうとしているように見えるが、二度目のラッキーはたぶんないと思う。


おおっと、今月は初っぱななら、二本立てだぜい。



…ということで、ちと飛ばしすぎですが、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.11.03] アップルの陰謀 〜より転載&加筆修正

キモチワルイ、レトロ趣味

スコットネタで、ついでにもう一席。

標的にされているひとつが、iOS のインターフェイスに多用されているスキューモフィック・デザイン(Skeuomorphic Design)である。工芸品や実際のテクスチャなど、現実世界のモチーフをエミュレートしたものというのが定義らしい。スコットはその強い信奉者であり、それはまた、スティーブの要望でもあった。


ここで、ひとつ私見を申し上げておく。それの何処が悪いんだ、と。


おう、MacBook Air のカバーは buzzhouse design のハンドメイドレザーケースだし、iPhone 5 のケースは SPIGEN SGP ヴァレンティヌス/ビンテージ・ブラウンだ、文句あっか?


工芸品のような見かけは時代遅れで、コンピュータのユーザインターフェイスには不必要である、というのが反対する陣営の主たる言い分らしい。要するに、電子ブックが紙でもないのに本の形をしているのはおかしい、と言うことだ。


アップルでは、重鎮であるジョナサン・アイヴがその推進者であり、ことごとくスコットとは衝突していたらしい。
一部のイギリス人にとっては、重厚なデザインの建築物が街中にあふれ返っている景観は見飽きているのだろう。しかし、その反動がミニマルに結びついたというのでは、あまりにも短絡的すぎる気もする

優れた外装デザインと、ユーザインターフェイスではモノが違う。サー・ジョニーの称号を持つアイヴに対して失礼は承知で提言するが、眺める美しさと触れる心地良さが、同じデザインであると考えているのなら、とんでもない思い上がりであるし、何でも統一されりゃいいってもんぢゃない。区別もできない意味のない統一は、かえって混乱を招くだけだし、使って心地良いものはたぶんミニマルとは対局にあると思う。


もちろん、実際のお手並み拝見しないと、勝手な評価は無礼千万極まりないことは、自分で書いていても分かる。しかし、コンピュータの外装に関しては、その手腕に文句の付けようがないと尊敬しているが、あんたがデザインした部屋には絶対に住みたくないとも思っている。ましてや、工芸品のような見かけは時代遅れと一刀両断に斬って捨てられたら、ましてや、外野の方からもレトロ趣味、気持ちワル〜イなどと罵倒されりゃ、腹も立つ。(別に、ジョニーがそう言ったわけぢゃないんだけどね)


iPhone や iPad と Windows Phone の Metro UI を比較してみればわかることだ。
まるで、街頭の看板のようなデザインが画面一杯にちりばめられ、色自体にあまり意味のなさそうなわりに、やたらケバイ色使いは、無駄に疲れると思うが、あれが平気な連中がいるという事実に恐れ入る。ほんと、個人の趣味は多種多様だな。

ただ、この手のインターフェイス論議については、今に始まったことではない。

Macintosh 黎明期のソフトに ジャム・セッション(Jam Session)とかスタジオ・セッション(Studio Session)というがあった。

前者は、ミュージシャンの絵柄をバックに音楽が流れ、そのジャムにキーボードやマウスでサンプリング音源を操作して参加できるというもの。後者は、画面上にまんまカセットテープレコーダを表示し、テープが回る様子まで再現した、ある意味バカバカしいソフトである。当時のモノクロ9インチディスプレイに表示されたそれは、現代のコンピュータグラフィックスを見慣れた者からすれば、アホらしさの極地のような見かけではあったが、その楽しさはそのグラフィックスのクオリティとは無関係である。


もちろん、マックユーザ達には概ねバカウケであたのだが、当然、非マックユーザ(現在のアンチに相当する)連中からは、あらゆるツッコミが入った。極めて無駄の多いインターフェイスであるとか、貴重な資源を浪費する非効率的なプログラムであるとか、それはもうボロクソである。


ま、業務で電子計算機に関わる者から見れば、ウクレレ片手にアロハで企業面接に臨むようなものだから、仕方あるまい。


ただその当時、本心から仕事のために必要だからという理由付けでコンピュータを購入する者は少ない。自家用車でも買えそうな値段のキカイを身銭を切って買うのだから、ビジネスツールというのは資金捻出と周囲(および自分を)の納得させるための口実であり、突き詰めて言えば実際、ほぼ遊び、ただの道楽、むしろ面白そう、みたいな?…だから買うのである。


事実、Mac のそのような機能に対して批判的な連中は、自腹でコンピュータを買ったことがない、または買う気もない者が多かったように思う。公然とコンピュータはゲーム機ぢゃない、といって憚らないし、
コンピュータに対しては期待するのは、処理能力と計算結果のみ。旅行に出掛けてもその行程は苦痛に過ぎず、何処でもドアを欲しがるような、典型的な「ドリルではなく、穴が欲しい」連中だ。

その後に登場した Windows の方が一般に広く受け入れられ、特に業務用という用途では Mac が門前払いに近い状態にあった歴史的事実を見れば、たぶん、今も昔もそんな連中の方が、数的には多いのだろう。つまらんね。


スキューモフィック・デザインに対する、反対派の言い分。

現実世界のモチーフを表現するために機能的に必要でないものまで取り込み、単純にそれは余分なものとなる。無くても済むものはどんどん削り、必要性のみで構成された美しいデザイン、と言いたいのだろう。

余分が必ずしも不要とは思えないが、
もし、今後アイヴ主導でユーザインターフェイスが変更されるとしても、iOS のアップデートの時にアイコン内のギアが回らなくなったら、たぶん怒るヤツは少なくないと思うな。それ自体に意味など、それこそ不必要だ。

スチーム・パンクまでは必要ないにしても(嫌いぢゃないけど)、なにか暖かみや潤いのない寒々しさと、過剰な統一はファシズムの匂いすら感じる。そこはやはり過ぎたるは、であり、ある程度は選択肢で賄うしかないと思うがね。

特に最近の若者は、そのようなアナログ的なモノに対して使った経験もないから、現実を連想させるという効果がない上に、固定観念にとらわれて新しい手法を見いだす可能性を無くすことが、懸念されるらしい。
また、理解できるかどうかは、ユーザーの経験値次第なので、無駄にハードルを上げる必要は無い、と。

直球で受け取れば、まるで交差点で曲がる時にウィンカー出す人最近少ないんだから、出さなくていんぢゃね、みたいなものである。学校教育においてさえ、いまさら古くさい時代遅れな歴史の授業は不必要とでも言いたいのだろうか。だって、恐竜や北京原人なんか実物見たことねえもんな。


最近、iPod の売上げが低迷して、主たるユーザである低年齢層をなんとか、上位の iOS 機器にステップアップさせたい気持ちは判るが、なんでそこまで、幼稚なガキどもに媚を売る必要があるのか、全く理解できない。本来、知らないことの方こそ問題視されるべきで、そのために教育があるんぢゃなかったのか。

もう温故知新という言葉の意味も、教えていないのだろうか。

別に、iOS が教育的である必要はないが、無知な者に基準を合わせてどうするんだ辞書を引けと、ジェド・バートレットも言ってたし、「無知は罪であり、馬鹿は罰である」と、戦場ヶ原ひたぎだって言っているぢゃないか。


…ということで、今月もヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan

[2012.11.03] キモチワルイ、レトロ趣味 〜より転載&加筆修正

2012年10月30日火曜日

人事異動

今月は、前回のスティーブネタで締めにしようと思ったら、またもや大きな人事異動の発表である。なんと月末のクソ忙しい土壇場にきて、今月二度目の二本立てだ。

人事のことなど、外野席からでは全く分からないので野次馬なコメントしかできないが、個人的な感想を言えば(それしか言ってないけど)、ブロウェットに関しては遅すぎるぐらいだし、当初から何でこんなヤツがアップルに来たのか不思議だった。

会社としての発展には大きく貢献していることもあり、世間的な評判は良いキャプテン・クックだが、スティーブとは別の、悪い意味での朝令暮改を繰り返しているようにも見える。対応が早いことは評価するべき点であるが、それ以前にもっと良く考えてから実行しろと言いたくなることが多い。

トップのそのような対応は、少なからず今後の製品や運営に悪影響が出るものだ。(後先考えず、あまりにも簡単に判子をつくのは止めて欲しいな。←ボブの退職、EPEAT、etc.)

スコットについては、ジョニーとの確執やマップ問題の詰め腹を切らされたという噂だが、少なくともマップに関して責任の大半はクック船長にあると思う。確かにマップの完成度が低いままリリースしたのは、iOS 担当責任者として責められて当然としても、Google Map の継続使用期間を設けるなど、その善後策を含めた全般の運用に関しては、CEO の責任を追及されて然るべきであろう。

ましてや、謝罪文などの署名拒否が問題視されるような話にいたっては、高校の生徒会レベルの話ぢゃあるまいし、そんなモノにおよそ最高経営責任者以外の署名が必要とも思えない。

プレゼンターとしてのスコットは、他のメンバーに比べて何となく信頼に値するような自信に満ちたところがあり、好感が持てていただけに惜しい。もちろん、更迭の原因はそんな些細なことではない、と思うが…。

巷の評判はさておき、スティーブがそう簡単に謝罪しなかったのは、全責任を負っていた彼の確固たる信念(と、それに伴う往生際の悪さ)によるもので、熟考の末決定したことをそう簡単に変えるようなことはしない。その点においては、朝令暮改は彼の方が遥に少なかった。

そうでなければ、命がけでトップの至上命令に従ったスタッフはやってられねえだろうし、スコットがそのような謝罪文に署名することを拒否したり、謝罪文の公表自体に反対するのは至極当たり前の様な気もする。それとも、アップルの各担当上級副社長というのは、CEO をもすっ飛ばして製品をリリースできる絶対権限でも持っているんだろうか?

ま、アップルの親分子分の力関係については良く知らないんだが、いずれにしても、スティーブの時代には考えられないことだ。

以前のアップルであれば、すべての責任(と手柄)はスティーブが担い、それがアップルの顔であった所以である。今のアップルには、ハッキリ言って顔がない。どうして分かる、首無し美女殺人事件状態である。(なんのこっちゃ?)

それにつけても、リマインダ、連絡先、メモが使いにくい。

iCloud 連携の代表的な御三家アプリであるが、早急に何とかして欲しい。

リマインダでは、業務用と個人用を分けるためにリストを作ったら、全てを一覧できない。備忘録というのは、須く全体を見通してその後に細かい分類をすべし、というのが本来のアプローチだと思うのだが。(OS X & iOS)

そうかと思えば、連絡先では反対に分類済みのグループだけを表示しようとすると、やたらに余計なステップを踏まないとできない。そもそも分類に関する基本機能自体が、後述のメモとも大きく異なっており、まるで別会社のアプリケーションを使用しているような気になる。また、グループ作成や既存のグループへの分類など、編集機能に多くの制限があり、これまた Mac 版の連絡先(旧姓アドレスブック)とは外観が似ているだけの全く別アプリである。(iOS)

以前は問題なかったところまでわざわざ改悪するとは、一体何を考えてインターフェイスを作っているのだろうか?(もし、これがスコットのせいなら辞めてもらって一向に構わんと思うな)

メモに関しては、基本コンセプトに根本的な問題がある。長年 Mac を使ってきた者からすれば、コピペでこんなに苦労させられるクソアプリも珍しい。問題は、リッチテキストを優先するあまり、使いやすさが大きく犠牲になっていることだ。フォントの概念が全く異なるモノにリッチテキストは不要だろう。どうしても体裁にこだわるなら、せめてプレーンテキストオンリーの選択肢を設けるべきだ。(ワープロぢゃねえんだ、メモだよメモ、わかってる?)

加えて、相変わらずバグだらけの編集機能は、いつまでたっても修正されない。おまえら、リリース前にほんとに使ったことはあるのか、と言いたくなる。(OS X)
[以上:フィードバック済]
iOS 担当上級副社長が替われば、ただちに改善されるモノでもないだろうが、せめて以前から気になっていた Mac と iPad の統一性の無さが少しでも良い方向に向かえば、と思う。

製品について変化があれば人事も多少の影響はあったのだろうと、結果から類推するしかないのだが、何も改善されなければその責任者は何もしていなかったか、諸悪の根源はまだ別のところにあるという、より厄介な問題が表面化する。

上記課題に加えて、iPad 版のミュージックアプリの問題(アルバムを跨いだ連続再生機能など)は、iOS 6 になってから少しづつ改善されてきているようだが、今必要なのはもっと全般に渡って根本的な改革なのではあるまいかという懸念であり、あらたな人事によって任された担当者の手腕が問われる。

しかし、NeXT 時代からのメンバーがまた一人去ることによって、スティーブのカラーが一段と薄められていくのはちょっと寂しい。

てなこと言って、小綺麗にまとめてみてもしょうがない。

どうせ、スコットはハメられたんだろう。無責任な言い方かもしれないが(だって責任なんて全く無いもんな)、アップルのお家騒動なんてどうでもいい。アップルがさっさとバグを直して、新製品をとっとと出荷して、新たなワクワクさせてくれる何かを提供してくれりゃ、ぶっちゃけトップは猿でもいいと思っている。(なんなら、オレがやってあげてもいいよ〜)


…ということで、来月もヒトツよろしく。
2012年10月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.10.30] 人事異動 〜より転載&加筆修正

朝令暮改

今月は、スティーブの命日(の月)である。よって、最後までスティーブネタで押し通すことにする。

彼については、すでにあちこちで語り尽くされており、一年もたっていまさらな感はあるが、昨年、突然の訃報に接したおりには、書きたいことは山ほどあったにもかかわらず、何も書けなかったことが悔しい。

この一年、スティーブに関する書物は新たに出版された物、過去に出版されたものも含めて一切読んでいないし、資料もたいして読み返した訳でもない。あくまでも、自分の記憶の中にある彼をもとに書いているので、けっこういい加減であやしい内容にはなると思うが、もともと言いたい放題の雑記/雑想がこのサイトの基本方針なので、問題はあるまい。

前回、iPad mini の設定価格について、適当な私見を述べてみたのだが、iTunes、App Store 等で、アップルが作り上げてきたインフラについては、あえて言及しなかった。iPad の成功の影(でもないけど)には、iOS 機器を取巻く環境が大きく影響していることは、世間一般にも認識されていることであり、いまさらな話になるのもアレなので、アップルが作り上げた購買層という表現でお茶を濁したのである。

なぜ、濁す必要があったかといえば、個人的にはあまりそのインフラのお陰は被っていないことと、逆に売上げにもほとんど貢献していないからだ。

もちろん、iTunes はその前身であるところの Sound Jam MP (Casady & Greene) を購入して以来、歴代 iPod 以前の Rio 800 (Sonic Blue) の時代からずっと使い続けているし、iPhone や iPad を使用するようになってからも、App Store は利用している。

しかし、未だに音楽や映画は専らアマゾンなどで購入した CD や DVD からリッピングしたものばかりで、ただの一曲、一本でさえ iTunes で購入したことはない。App Store を利用するのもせいぜい無料版のソフトぐらいであり、iOS 版の iWork を始めアップル謹製アプリや Mac OS のアップデータ以外で購入した物は、大辞林、AirVideo、などその数はさほど多くない。大半は、標準添付されたソフトの機能で事足りている。

このような状況で、あたかも一般的な iPad ユーザ視点で持論を展開するのも如何なモノかという気もするし、アップルが長年の紆余に曲折を経て作り上げてきたインフラ、特に有料のデジタルコンテンツについては、一定の距離をおいた客観論にとどめておきたいという考えが働いたからである。

ソフトウェアに関しては、バージョンアップがある程度保証されているので、購入に対してさほど抵抗はないのだが、音楽や映画を筆頭にほぼ買い切りになる現状の著作物に関しては、現物支給に対してのみ対価を支払う価値がある、と考えているためなかなか手を出しにくい。

LP 時代に購入したアルバムの大半は、CD になってから再度購入し直したが、DVD で購入した映画などをいまさら BD でもう一度購入する気にもなれない。だからといって、かつてのテープメディア(カセットテープ、VHS、ベータ、8mm、等)に至っては、数千本にもおよぶ散財をやらかしてきた年代の者にとって、中身だけに金を払う習慣は根付いていない。せめて現物でもあれば諦めもつきやすい、という程度の細やかな抵抗である。その点では、国内では未だ未対応の iTunes Match には期待していたのだが、…余談である。

要するに、日々デジタルの恩恵に預かりながら、一方ではアナログの呪縛からも逃げ切れずといった呈で、あまり昨今の時流には乗りきれてはいない。

長年使用してきた Mac は、すでにビジネスツールを通り越してライフツールと化しているので、もはや他の選択肢などあり得ないのだが、iPhone を筆頭に iPod や iOS 機器を使用するのは、Macintosh の周辺機器としてという側面が強い。未来のパーソナルコンピューティングに思いを馳せて…、といえば聞こえは良いが、実際はただ使っていて面白いからであり、それ以上でもそれ以下でもない。

で、本題の朝令暮改である。

朝令夕改、朝改暮変ともいわれるらしいが、この熟語自体、法令などがすぐに変更されて一定せず、あてにならぬことを意味する、あまり有り難くないことに使用されることが多い。

ぶっちゃけ、朝余計なことを言わなけりゃ夕方に訂正する必要もないだろう、という戒めの言葉であると個人的には考えている。

アップルのやり方の基本にあるものを理解するためには、この「余計なこと」の本質と背景を見極めることが必要である。

アップルも企業である限り、利潤を追求するのは当然のことであり、それ自体が悪いことではない。本来の目的は、そちらであることが社会通念上一般的であるが、ただもう一方で利潤の追求の仕方にはさまざまなスタイルがある。コンシューマ製品の場合は企業イメージというモノが、重要な要素となり製品の売上げに大きく影響する。

スティーブ・ジョブズは、かつてのアップルの顔であり、見方によっては彼そのものがアップルであり、アップルとは実はスティーブ・ジョブズのことなのである。

スティーブの復帰後、アップルの最も顕著な変化は「自分たちが本当に欲しいと思うものを作るんだ、という思想を全社的に浸透させている企業」というイメージである。あくまでも、アップルが顧客に見せたいイメージであり、実際がどうなのかはこの際あまり関係がない。ユーザがそう思ってくれたら、ラッキーという程度のものだ。

それまでアップルは、市場占有率におけるビハインドをいかに挽回するかが、企業としての最大目標であったように見える。(実際90年代末期のアップルは、その存続が危ぶまれていたんだから、当たり前な姿勢ではあるが、…)

請われて復帰したスティーブは、ある意味気楽なもんだったろう。仮に潰れて無くなったとしても、責任の大半はそれまでの経営陣にあったわけだし、それならということで、思い切った大鉈が揮えて好都合だったに違いない。外から見ても感じたのは、市場占有率なんぞとっとと諦めて、やりたいようにやろうぜ、という良い意味での開き直りである。

ただ、そこにはアップルに対する、ただならぬ愛情があった。

ポリタンクや初代の iMac などのふざけたデザインで会社を建て直そうという奇策を、真当な会社の役員連中が素直に認めるとも思えないし、藁にも縋るせっぱつまった感が功を奏したことは、間違いあるまい。結果、それなりに Mac の販売量も増えたが、その程度では大きく傾いたアップルにはまだ足りなかったのだろう。Mac をあらゆる、コンテンツの中心とするべくデジタルハブ構想をぶち上げた。(当初は、まだ iPod もなく Rio や Palm が登場する)

その次に目をつけたのが、当時は異業種であった音楽業界であり、「Rip-Mix-Burn」の旗印のもとにメディアの呪縛から開放しようという試みも行われた。音楽業界としてはあまり面白くはなかったが、そこは商売人としてうまく立ち回ったスティーブのおかげもあって、iPod へ向かって階段を上り始めた。

そのころから俄に、コンピュータ会社でありながら一般的にもファッショナブルであるとか、所有することで自己満足を得られる的な、勝手なイメージが生まれ、一時はそれを利用した広告展開もあったようだ。が、基本的にはありがちなイメージ戦略とは少し異なり、ユーザ体験(User Experience)を重視するという方向で、当時の業界では暴挙と言われたリテールストアに注力するなど、言うなればスティーブのやりたい放題である。

最高経営責任者としての露出度はピークに達し、一言一句、一挙手一投足が暴露され、編集され、報道され、出版され、あらゆる解釈があらゆる解説者によって披露され、 カリスマ経営者の発言としてことあるごとに引用され、一人歩きをするようになる。

○現実歪曲空間。
○闘争本能の固まりのような独裁者。
○1000マイル先は見えているが、足下は見えていない。
○刺激的で、放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者。
などなど、スティーブを揶揄する言葉には、罵詈雑言を含めて枚挙に暇がないが、朝令暮改もそんな中のひとつである。

「市場調査などしない、まだ存在しない物を顧客に聞いてどうするんだ。」というのは、ヘンリー・フォードの有名な言葉のアレンジだが、生前スティーブも、人は形にして見せるまで何が欲しいのかわからない、という意味のことを好んで語っていたように思う。まるで、僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る的な、企業経営者ならいっぺんは言ってみたいものだろう。

「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」という元祖自動車王の名言も、企業人にとっては奇麗事にしか聞こえないが、スティーブはマジでこれをやろうとしたフシがある。もちろん、奉仕を主とするという部分ではなく、事業は栄えるという部分に惹かれたのは明らかであるが。

iTunes Music Store を始めとするインフラ(エコシステム)作りは、たぶんそんな壮大な計画の一端であり、iPod に対する囲い込みというようなセコイ考えからではない。いわば、大きな飛躍のための第一歩であり、いつまでも音楽業界だけを見ているわけではないことは、その後の映像および出版に対する展開を見れば、瞭然である。

「自分たちが本当に欲しいと思うものを作る」という精神は、その時点で可能な限りのテクノロジーをつぎ込んで、ある程度コストは度外視しても妥協を許さず、本当に満足出来るモノを創り上げよ、という至上命令に等しい。ファッションブランドと違い、競争の激しいコンピュータ業界のことだから、コストをあまり無視し続けると、NeXT の二の舞いになることは、スティーブも身にしみて分かっていたのだと思うから、あくまでもある程度、である。

だが、万人を満足させることなど、妥協の産物にしかできないことであり、この時点で絶対矛盾が生じる。なぜなら、人々の要求は様々であり、あるものを作り上げて供給しある程度行き渡れば、必ず別のモノを欲しがるという図式がある。

アップルが、iPad を幾ら善かれと思い 9.7インチサイズを選択しても、必ず他のサイズを欲しがる。それは、価格であったり、重量であったり、その時点のテクノロジーの限界があるかぎり、要求にはキリがない。

ドーナッツの穴という表現は、このような理由に基づく見解であるが、それは最初から存在する物ではなく、何かが生まれその結果として現れるものだから、時間的な要素も重要になってくる。

「成長より利潤に価値があり、マーケットシェアは戦略の主たる目的ではなく、成功の結果を示す指標に過ぎない。収益を維持すれば、あと一日は生き延びられる。」というのは生前のスティーブの言葉である。利益を度外視してまで、その穴の中に湧いて出てきたような競合(していると見なされている)他社との市場占有率など、アップルがスティーブの思想に忠実なら、興味を持つとも思えない。 

したがって、iPad mini の仕様や設定価格については、相対的にはリースナブルとは言えないかもしれないが、アップル製品として現時点で執り得る最善の選択肢なのであれば、個人的には納得できる範囲内である。だが、ユーザには別の選択肢があり、何かを引換えに納得できるなら、もちろんそちらを選択することも可能だ。それは、価値観の違いであり、全く議論の余地はない。

作る側の視点と、使う側の視点の違いから生じる問題もある。人は形にして見せるまで何が欲しいのかわからない、という言葉を裏付ける例は、iPod が証明している。

最初は、せいぜいアルバム一枚程度の再生装置であるが、メディアを無くしただけ、容量を多少増やしただけでは主役にはなれない。ましてや、大きく重く不安定なドライブに転送速度も遅いインターフェイスに加えて、ロクなサポートソフトも無いまま、力技だけに頼って作られたミュージックプレーヤの末路を見れば、綿密な計画と周到な準備が必修であることは明らかである。

そのためには、それを実現出来るテクノロジーが確立されないと、アイデアだけでは製品は実現しないし、ユーザに受け入れられない。ユーザ体験(User Experience)を重視すれば、ユーザに我慢を強いらずにすむテクノロジーが必要になり、製品化のタイミングこそが重要な要素となる所以である。

スティーブの「ヤスリ付属7インチタブレット」の話も、その時代に実現可能なテクノロジーに基づく最良のユーザ体験を重視した、作る側の視点からの発言であることを忘れてはならない。これはひとえに、技術的な側面に由来するものである。

今回の iPad mini の発表により、10インチクラスのタブレットが 600g 前後、7インチクラスが 300g という、一つの指標ができた。着目すべきは画面サイズだけではなく、重量という要素も重要な側面を持っている。15インチで 4K2K の iPad だって技術的には可能だろうが、現状で 2kg を超えるようなタブレットは売れない。今すぐ実現できることでも、具体的に望んでいることでもないが、高解像度や大画面に対する漠然とした要求は、必ずある。

仮に、15インチクラスで 300g が実現できたら、次に望まれるのは果たして何だろう。それがポケットに入るようなテクノロジーで実現出来るなら、だれも7インチは欲しがらないし、そんな市場も存在しない。画面サイズ自体が、あまり意味のない物にさえなってくる。

そういう意味では 10インチにしても 7インチにしても、あくまでも今だけの需要であり、全ての製品はいつの時代も過渡期にある。

iMac や MacBook シリーズにも過去どの時点においても、複数の画面サイズが存在したこと、また時代とともに大型化されてきた事実に目を背けて、iPad の画面サイズについて四の五の言う輩は、ただ単に企業間のレースを面白く見せるために騒いでいるだけである。本来そこに、勝ち負けなどありはしない。まだ、ゴールは遥か彼方で遠いのだ。

Retina Display もなく、バッテリーの容量や価格、重量やサイズなど、あらゆる観点からその時代の最良と判断された設計であるからこそ、iPad はあれだけの数が売れたのだ。今ごろになって、単なるネームバリューやブランドで売れたような論調で語られるのは、まことにもって失礼な話であるが、ただ口を開けて待っているだけの連中には、わかるはずもない話かもしれない。

マーケッティングの達人のお言葉と称して、「ドリルを買う人が欲しいのは、ドリルではなく穴である」というのがある。

人の好みは、千差万別、十人十色、多種多様、種々雑多、とバラエティーに富んでいる。また、世の中には無視出来ないほど大多数の、どうでもいい派が存在する。安けりゃいい、軽けりゃいい、小さけりゃいい、とりあえずどうでもいい、という人たちだ。彼らは、テクノロジーや製品そのものには全く興味がない。ただ、目的と手段を履き違えないだけに、手ごわい相手である。 彼らを侮ってはならない。

彼らに高級感を訴えても、エスキモーに冷蔵庫を売りつけようとするようなもので、無駄である。 輪ゴムやガムテープに高級感を求める人は、たぶん少数派であるし、圧倒的にお勤め品がひしめく世間一般を見渡せば一目瞭然である。 コモディティ化というらしいが、日用品レベルまで熟成した(腐り切った?)市場においては、もはや高級品は少数派にしかなりえない。

その限りにおいては、アップルがどんなに丹精込めて創り上げようが、その製品は数の上で絶対に主流にはなり得ない。いや逆にマジになってで作れば作るほど、そのジャンルが一般化すればするほど、普及品によって埋め尽くされるのが現実である。アップルがイノベータを自負するのなら、別のジャンルへと旅立たねばならないタイミングになるだろう。

それが前回の、Mac も含めて本来アップル製品自体、市場で最も多く売れるようなシロモノではないと思う、という根拠になっている。

いくら、iPad がコンテンツを重要視して、使用中には見えなくなるなどと嘯いても、現状でタブレットみたいなモノの購入者の目は、ディバイスをしっかり見ている。それが証拠に、やれスペックがショボイの、画面の解像度がどうのという評価でしか語られない市場であるから、ある意味まだ大丈夫だろう。アップル製品の躍進は、期待していいはずだ。

ま、「自分たちが本当に欲しいと思うものを作る」というポリシーをアップルが崩さないことが、大前提になっているんだけどね。

スティーブならどうしただろうか、などと考える必要はない。そんなことは、アップルの連中が一番よく知っていることだ。(ほんまかいな?←アップル人事異動)

…ということで、ヒトツよろしく。
2012年10月某日 Hexagon/Okayama, Japan

[2012.10.30] 朝令暮改 ~より転載&加筆修正