2014年5月31日土曜日

懐かしい機関車

いつものことではあるが、新しい機材が手に入った途端に、不思議とそれを使うチャンスがなくなってしまう。

雑用に追われたり、想定外の問題(というほどのモノでもない)が発生したりで、今月の後半は全くといって良いほど、機材以外の写真が撮れていない。

前回は、機材関係の標題で始めたのだが、その物撮りと検証を兼ねた撮影で、随分懐かしい釜と遭遇した。

懐かしさのあまり、つい三脚のオマケ話として入れてみたのだが、機材とは直接の絡みもないし、それが邪魔になってもまずかろうと考えて、新たにメインとして差替えてみたのである。

もちろん、写真が撮れていないせいで少々ネタに窮した、という裏事情がないわけでもない。

細かいことを言えば、DP2 Merrill による特急はシルイの三脚と FB-36 の組合せだが、こちらはマンフロットと DT-02 の組合せによるモノである。よって今回の写真には、新規導入の機材は一切関係していない。

冒頭のディーゼル機関車がその写真だが、流し撮りの練習など行っている最中にやって来たところを、パンニングしながら3連写した、その2枚目である。

絵的にマシな3枚目をメインに据えてみたものの、写真的にはイマイチ感が漂う。それをハッキリさせるためにも、その経緯を全部晒してしまえ、と考えた懐かしい機関車 DE10 である。

まだ準備も出来ていないところに、突然やって来たものだから、設定はオートブラケットのままだし、絞りも開放でさえ時間的には無理がある明るさになっている。

直前の DP2 Merrill による、特急スーパーいなばの練習ショットから、本来ならば前回の吉備線のように ND フィルタをかけ、それほど絞込まなくても済むようにと、流し撮りのことしか頭になかった。

ま、そんな悠長なことを考えている時に限って、シャッターチャンスというのは訪れるものであり、テスト撮影、機材撮影とはいえカメラを持ったら最後、決して気を抜いてはならぬという教訓になったのである。

ネットの情報によるとこの機関車、DE10-1151 と共に 岡山機関区から電車区に配置替えとなった DE10-1147 である。

なにせ、古い記憶なので勘違いの可能性は否定できないが、川崎重工業製のこの車両、機関区時代(1980-1985頃)には何度か、仕業検査で検修作業を行ったことがあるように思う。

昔のアルバムも探してみたが、残念ながらこの釜が写っている写真は見つからなかったので確証はない。当時の岡山機関区に所属していた機関車も、JRF 移行後に余剰車両として処分されたり、大半は既に廃車になってしまったものが多いと聞く。

記録によると1971年製なので、当時はまだ新しい釜であったはずである。よもやそれが30年後に、このようなピカピカの台車を伴って目の前に現われようとは、予想もしていなかった。

テスト撮影のつもりで、たまたま通りかかったところを撮ろうとしたのだが、まるでタイムワープでもしたような錯覚を起こして、一瞬手が止まってしまった。

おかげで、いつものシャッタータイミングより遅く、ジャストな位置で捉えることができたのだろうと思う。(ただし、後ピンだ)

ちなみに、構内の入替え用機関車 DE11 と同じような形態ではあるが、DE10 は2端側に暖房用SGも搭載しており、本線用も兼ねている。(DE11 の2端側は錘が入っている)

そのため、手前運転台にはまるで機関士が乗っていないかのように見えるが、実は反対側にも運転台があり、窓側に背を向けて横を向いたまま操作する。実際に、機関士の評判は聞いた事がないのであくまでも想像だが、長時間はキツそうな構造でもある。

1,100ps の機関(DML61Z)が2機搭載された、本線専用の DD51 と異なり、機関は1端側(長い方)に1基のみ搭載される。

だが、より強力な DML61ZA形(1,250ps/1,500rpm)、1000番台以降の DE10-1147 に搭載されているのは、その出力増強形の DML61ZB形(1,350ps/1,500rpm)である。

入替え作業を終えた DE10/DE11 が仕業検査に入ってくると、合計20個もある制輪子(ブレーキシューみたいなものだが、要するに鉄の塊だ)は、たいていペラペラに消耗しており、交換要員である検修係としては、あまりお近づきになりたくない釜でもあった。

しかし、その機関車がまだ現役で頑張っている姿を見ると、なにやら嬉しくなってしまう不思議な感覚である。


…ということで、来月もヒトツよろしく。

2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.31] 懐かしい機関車 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月25日日曜日

トラベラー三脚(SIRUI T-2204X)

久々の機材導入ネタ、トラベラー三脚である。

最近は、ガソリンも高い。高いが、高騰にマヒしてしまったのか、以前ほど話題になっていないように見える。

ハイブリッド車や低燃費車が巷に溢れているので、誰もそれほど気にしなくなっているのかも知れない。もしそうなら、これは由々しき問題だ。

なんでも価格に鈍感になってしまうと、狡猾な大企業や政治家連中に上手く利用されるだけだ。裕福な方はもちろん、それほどでもない方にも、ぜひとも大型大排気量の不経済極まりない車をどんどん買って、もっと石油価格に敏感になってもらいたいものだ。

姫新線や伯備線などは、たとえわずか半日の移動であっても、走行距離はそれなりに増えるので、その費用も馬鹿にならない。ましてや、仕事も絡まない撮影行となれば、そう気軽に出掛けることも憚られる。

前回、吉備線では雑用もあったのでミニで廻ったのだが、駅周辺では如何に地方ローカル線といえども、駐車スペースを探しながら良いポジションを探すのは結構気疲れする。

で、せめて近場の撮影は、原付で賄うことにしたのである。

以前、俯瞰で撮りたいがために、老体にムチ打って山の斜面にアタックをかけたことが何度かある。

現行の撮影機材一式を持ったまま挑戦するほど、体力に自信があるわけでもないので、たいていはカメラ本体のみか、せいぜい一脚または、軽いだけが取柄の三脚で妥協せざるを得なかった。

その結果、出来上がった写真はあまり満足できるものではなく、それ以上に撮っている時点ですでに面白くないという、重要な要素に欠ける撮影になってしまった感があった。

現在メインで使っているマンフロットの三脚も、単体では僅か 1.29kg とカーボンならではの軽量を実現している。しかし、必修のレベリングベースと主力の2ウェイ雲台のみのシンプルな構成でさえ、そのトータル重量は軽く(重く?)2kg 越えとなる。

・Sunwayfoto DYH-66i:295g
・Sunwayfoto DT-02 & DDH-03:338g+126g=464g
・Manfrotto 190CXPRO3:1,290g
・合計:1,290g+295g+464g=2,049g

当初、三脚バッグも車での移動を前提として、その構成で収まる余裕分も想定したサイズを選択した。 その結果、カメラ本体を除いても総重量は、約2.7kgとなってしまう。

・Manfrotto MB MBAG80PN:630g
 外寸(内寸):80.0 cm(76.0 cm)
 雲台側外寸(径):23.0 cm
・総合計: 2,049g+630g=2,679g

ただ、毎回山登りを好んでしようとわけでもないし、非力な原付とはいえこの程度の荷物でどうこうなる重さではない。

問題は、重量もさることながら、その収納サイズである。

マンフロットのバッグも、背中に担げるようなストラップは付属している。 だが、三脚本体に加えて、レベリングベースや雲台も取付けた、総重量 2.7kg 長さ 80 cm にもなるモノを担いでは、余程近いところでないと原付で行く気にはなれない。

ましてや、降りてからの移動を考えると、このバッグのサイズは少し大仰な気もする。いずれは、現地までその路線を利用した撮影行なども企てているので、列車内でのことを考えても、今少しサイズ的なメリットに興味が湧くのである。

例によって、コンパクトなトラベラータイプの三脚について調べてみた。

まず、候補として上がったのは、定番のジッツオのトラベラーシリーズだ。しかし、その価格から先ず間違いなく却下されることは、火を見るよりも明らかで、無駄な揉め事の種を蒔く必要もないと考え、今回はスルーということに。

次に思いつくのは、そのパチモンと思しき SIRUI T-1204X である。重量も1kg を切っており(実際は1,100g)、4段で縮長40cmというコンパクトさを実現しながら、全伸高140cmというのにも惹かれる。マンフロットの146cm と比べても、それほど違わない高さになる上に、最も細い4段目でさえ同等の16mmである。

最初に導入した一脚(SIRUI P-326)とマンフロットを比べたとき、この一脚を三本使った三脚なら良いモノになるだろうと思った。段数の差からトップは190CXPRO3 とほぼ同じ25mmだが、さすがに6段の三脚というもの見かけないので、全伸高が同等なら十分だろう。

ネットでの評判も良好なようで、一様にコスパの良さをその魅力としているものが多く、その辺りもこちらの認識と一致するものであった。早速、現在の相場を確認するため調べてみるが、ひとつ上位のモデル(SIRUI T-2204X)も同等か、ショップによっては下回るものもある。

そのスペックは、なんと縮長は僅か1cm ほど長いが全伸高143cm とプラス3cmのメリットに加えて、P-326 と同様にスパイクタイプの石突を内蔵している。基本構造はほぼ同じだが、4段目でさえ19mm とトラベラータイプとしては異例に太いことが、三脚本来の機能にも期待が持てるものだ。

三脚の評価でよく引き合いに出される脚の太さだが、幾らカーボンといえども所詮は中空のパイプであり、それ自体がどの程度の違いとして現われるのかは、自分自身では未だ検証が出来ているわけでもない。

最下段以外は、その構造上中空であることは避けられないが、必ずしもその必要のない最下段でさえ、細いことによるデメリットを何らかの工夫により、強度を増そうという試みはされていないようだ。

何か詰めモノでもすれば、強度が上がるというわけでもないのかもしれないが、それはマンフロットもシルイも同様で、最も細い最下段も中空のままである。

また、以前は一段あたりの差が小さいことが技術的に優れている証のように考えていたが、結果的に各パイプ壁面の厚さにかかわることになる。

したがって、果たしてどちらが良いのかも疑問であり、あまり小手先の仕様諸元に躍らされるのも如何なものかという気もする。三脚に限らず、脚は太過ぎても細過ぎても、個人的なストライクゾーンからは外れるが、それはまた別の話だ。

ネットでも、こちらの方が製品化されて長い関係で情報も多いし、もちろんその評判も T-1204X 以上に良好である。

トラベラータイプの 2200 シリーズのラインナップには、1200 シリーズと同様に5段タイプ(T-2205X)もあって、その縮長 37cm には強く惹かれたが、全伸高は139cm と少し短くなる。

以前、短期間だが iPad mini を使っていた時、ノーマルサイズに比べて小さいことのメリットは、主に持ち運んでいる間だけで使用しない時にしか享受できないことに、イマイチ感を募らせていた。

だが、三脚なら小さく持ち運んで大きく使うことも可能なので、必要以上に収納サイズばかりに拘るのもまずかろうと考えたのである。

マイナス4cmは確かに魅力だが、180度反転により収納時の縮長をより短くするタイプの三脚は、その構造上それを実現する為にはセンターポールも短くすることが必修となる。

そして、それは全伸高に影響するので、何を優先するかで選択に違いが出るだろう。無闇にスペックを追い求めると、実使用では落とし穴に落ちることもある。

実際、ちょっと小さな穴には落ちたが、…。(詳細は後述)

で、アマゾンの価格を参考にするなら、T-2204X の方がコスパに優れるという結論に至ったのである。

ただ、問題はその価格である。現在は型代わりをして、随分と高価になってしまった感のある190シリーズだが、それに比べりゃ安いとはいえ、以前のマンフロットとほぼ同等であるので、かなり根回しも必要となることが予想された。

幸い時期的には恵まれており、自分用の誕生日プレゼントを自分で買うということで、なんとか稟議を通すことができた。ついでに、小型軽量の自由雲台(Sunwayfoto FB-28i:ボール径 28mm/207g)も、このどさくさに紛れて発注した。さすがに、こちらは少し揉めたが、毎度のご愛嬌である。

そういえば、SIGMA DP2 Merrill の時も、また Sunwayfoto FB-36DL の時にも、そんな内容の嘆願書というか口実を使ったように思う。たぶん、すでに3年ぐらい先の誕生日分まで、もう使い果たしているような気がしないでもない。が、ここだけの話、来年もこの手は使うつもりだ。

で、実際の使用感であるが、笑っちゃうほどコンパクトで軽い FB-28i のお陰もあって、すこぶる良好である。

この、FB-28i 旧製品の FB-28 の改良モデルである。改良点は、独立したパンロックノブが追加され、ファミリーの他のモデルと同等の機能を有するが、テンションのプリセットは前モデルと同様にできない。

要するに、任意に設定するもっともユルい位置の設定だが、その機能を持つ他のモデルでもそれほど必要と感じたことはないので、個人的には不足はない。

このあたりは、もっとセンシティブな DT-02 をメインで使用していることによる、慣れみたいなものが影響している可能性はあるので、話半分に聞いていた方が良い。

それよりも、独立したパンロックがない前モデル(FB-28)は、いったいどうやってロックするのかという、その仕様の方に興味を覚える。

ボールを完全に固定しないと、いつもクルクル回るのだとしたら、恐ろしく使いにくいと思うが、その確認のために追加購入するわけにもいかない。

当初、発送の関係で三脚の方が先に到着したので、手持ちの FB-36 で使用してみた。見た目のサイズ的には、こちらの方がピッタリであり、十分に軽量なシステムにはなる。

一応、普段通りの FB-36DDHi 仕様でセットしてみたが、トップが円形のため収納状態でも干渉することはない。

また、サンウェイフォトと違って、サービス精神旺盛なシルイの製品である。センターポールの延長と、ローアングル撮影に必要なショートポールも標準で付属している上に、一般的には別売オプションが当たり前のジャストサイズなバッグまで付属しているので、トータルのコスパはマンフロット以上である。

もちろん、三脚としてのコスパにも優れている。価格が同等であれば、必然的にその内容にも十分満足できていることが、その理由となる。

ちなみに、コストパフォーマンスというのは相対値ではあるが、パフォーマンスが悪けりゃたとえ価格がゼロであっても、上がるわけではない。無料(タダ)でも要らない、という言葉がそれを証明していると思う。

ただ、前述の小さな落とし穴もなかったわけではない。大した問題ではないのだが、例によってネットでの情報も不確かな部分があるのは毎度お馴染であり、事前に確認したスペックでも複数の数値が交錯していた。

それは重量に関することで、一説には T-1204X は900g、T-2204X も1,100g という情報もあって、これを信じるなら T-1204X と比較しても、実質 200g 程度の差でしかない。

セット製品に存在する SIRUI G-10Xとの組合せが 1.3kg であることから、G-10X よりも 100g ほど軽い Sunwayfoto FB-28i との組合せなら、T-2204X でも十分そのレベルの軽量化は実現できる。

G-10X は単体でも 300g あるはずなので、この時点ですでに怪しい数値だが、それでも当初考えていた、純正組合せ SIRUI K-20X(400g)に比べると、200g 近い軽量化は可能だ。

だが、実際には1,100g というのは、付属のショートポールに変更した場合の重量であり、ノーマルサイズのポールでは 1,250g、両方組合せた場合は 1,300g とマンフロットよりも、僅かながら重たくなるのである。

もちろん、オフィシャルサイトで確認すると、ショートポールも含めた最大重量が正しく表記されているので、あくまでも非公式情報に過ぎない。
したがって、嘘ではないがちょっと紛らわしい、ジャロにいうちゃろうのレベルではないのだ。(JARO:公益社団法人 日本広告審査機構)

軽さだけを突き詰めれば、その製品の最小値を条件付きで表記する程度ことは、どの業界でも行われている。世界最小とか業界最軽量などという謳い文句の側には、必ず小さな文字で注釈があるものだ。

その程度のことなら、文章が解りにくい上に、読めないほど小さな文字の注釈だらけで、実質無料などと平気で宣伝している電話屋のなどに比べりゃ、詐欺とまでいえない。(電話屋は間違いなく、詐欺師だと思うな)

実は、止むに止まれぬ事情から、なんとこの時期に iPhone 5s に機種変更するという暴挙に及ばざるを得なかったのだ。18ヶ月ぶりに訪れた某 S●ftbank ショップで、その思いを新たにしたが、もちろん余談である。

また、個人のブログなどによると、最上部にある緩衝用のスポンジが、三本とも巻いてある仕様のものも存在するらしい。公式サイトでは2本のみの画像で紹介されており、今回の導入した個体もその2本のみ仕様であったことを付け加えておく。

導入以来、機材関係の物撮りの時ぐらいしか、レベリングベースを外すことはなかったし、大抵はインデックスローテイタまで搭載した状態で、専用バッグ収まっているマンフロットだが、確認のために本体のみにしてみると、T-2204X と殆ど変わらないぐらいに軽い。

数値上では同等であることは把握していたものの、普段の使用ではそれほど軽さを意識したことはなかったので、今更ながらに意外な気がする。それだけに、新シリーズが重くなってしまったのは残念である一方、昨年買っておいて良かったという、セコイ満足感もあったりするのだ。

ま、今回の最重要項目は重量ではなく収納時のサイズなので、T-2204X 自体の追加導入に、なんら問題があったわけでなはない。

それ以上に、Sunwayfoto FB-28i との組合せで実現できる、持ち運びの容易さと展開した時の、マンフロットと同等の剛性感と高さを合わせ持つという、トータルのメリットには満足している。

付属のショルダーベルト付きの専用バッグも、必要にして十分なクオリティを持っており、これ以上望むなら金を払えと言われても、文句はないレベルだ。

収納時にカーボンパイプと金属製のネック部分が接触して、傷が入るのを防止するためと思しきゴムのワッカまで付いている木目細かさは、シルイ製品ならではと思わせる。(マニュアルには記述がないので、製品輸送時の対策の可能性もあるが、そのまま使用は可能だ)

付属品に限らず、三脚本体に注目してもノーマルサイズのポールは下端にカウンタウェイトとして、カメラバッグなどを吊り下げるフックも装備している。また、前述のP-326 と同様に、脚先のゴム部分を回すと出てくる金属製の石突を内蔵していたり、雲台取付部分のネジ(UNC 3/8 & 1/4)も反転させることで両対応となっている。

マンフロットが、その特異なセンターポールを横方向に転換することで実現している機能の一部は、T-2204X でも可能である。それは、ショートポールに変更できるだけでなく、どちらも上下逆に差替えることで、ローアングル撮影にも対応できるのである。そのような機能面においても、いわゆる全部入りなんである。

あえて難点を挙げるとすれば、これもあくまでもマンフロットとの比較だが、センターポールに回転機能がないので実際に設置する場合、雲台のパン機能がないとちょっと使い勝手が悪いと感じた。

現状では SIRUI L-10 とでも組合せない限り、大きな問題ではないが、このあたりは極私的な不満かも知れない。

実際に使用したことがないので断言はできないが、ジッツオトラベラーシリーズの何れに対しても、半額以下、付属品も考慮すれば1/3にもなろうかというリーズナブルな点も、コスパ重視の庶民には歓迎できるところなのである。 

だが、海原雄山みたいなヤツが現われて「本当のジッツオを教えてやる、これでも使え!」と GT-1544T でも投げつけてくれりゃ、コロッと評価は変わるかもしれない。 

ま、事あるごとにそんな夢見がちな願望を呟いたところで、未だ山岡も海原もお目にかかったことはない。 したがって、現状では SIRUI T-2204X & Sunwayfoto FB-28i がベストなんである。

日も長くなって SIGMA DPM シリーズにとって、何かと撮影機会も増えてくるこれからの季節である。 

未だ、その機能を細部まで確認するには至っていないが、原付で出掛けても、さぞや快適な撮影行となるに違いない、と期待している。 



…ということで、ヒトツよろしく。
2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.25] トラベラー三脚(SIRUI T-2204X) 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月22日木曜日

鉄撮りの練習:其の拾壱(姫新線)

とどまるところを知らない、鉄撮りの練習シリーズ第十一弾である。

前回は、つい地元のローカル線ということで、公共交通機関のあり方にまでツッコンでしまい、上からな御託まで並べるという不似合いな雑談に終始してしまった。

あくまでも趣味としての写真なので、自分の撮る写真にはあまり余計な色は付けたくないと考えている。

ぶっちゃけ、ここの写真を他人が見てどうこうという期待は全くしていない。そういう意味では恥知らずにも、平気でいられる自己中心派である。

ま、それでもちょっとは上達したいとは思う。いろんな意味で…。

前回、智頭急行線の撮影でたまたま通りがかった姫新線の上月駅では、記憶にあった姫新線のイメージとは、随分とかけ離れた印象を受けた。

時代が変われば、路線の周りの環境も変化するのは、ごく当たり前のことではある。だが、変化と呼ぶにはあまりにも大きな違いに違和感を覚え、その確認のために訪れてみたのである。

言うなれば、侘・寂シリーズ鉄道版みたいなモノだ。

結果的には、岡山県側では路線周辺の環境変化も、許容範囲に収まることが分かったのだが、その過程を辿るうちに別の違和感のようなものも感じたのである。

田舎のローカル線を撮る場合、個人的な趣味でいえば、まことに不便極まりない閑散とした風景の方が、絵的にはより魅力的に見える。単なるレトロ趣味なのだろうと思うが、自分自身の中にある記憶の片鱗が、そんな状況に少なからず影響を及ぼしているようにも思う。

幼少の折、母親によく茶屋町の婆ちゃん(母の母)の家に連れて行かれた。孫の顔を見るのが嬉しいらしく、よく小遣いもくれた。

もちろん、幼児に現金を持たせるようなことはしない良識ある親なので、その殆どは母親に取り上げられ、残りの一部で何か子供騙しなモノを買い与えられ、誤魔化されていた。(たしか181系特急こだま号、先頭車両のみのオモチャは記憶にある)

要するに、孫をダシに小遣いをせびりに行っていただけなんだが…。

母親の実家でもあるその家屋には、屋内にトイレは無く裏庭に面した壁際に設えてあった。そのトイレ本体も地面に大きな瓶を埋めて板を渡しただけの、非常にシンプルな構造である。その脇には、落とし紙と称されるちり紙が僅かに積まれており、風で飛ばされないように乗せてあるが印象的だった。

また、ドアのようなものは全く無くて僅かな衝立があるだけの、たいへん開放的な作りであったので、臭いにも対しても開放的であり、そこら中にその香りを撒き散らしていた。

風呂場も別棟の離れのような建物にあって、冬場はその移動だけでも結構おっくうになる。そのせいか、お湯の温度は自宅で入るものよりかなり高めの設定が為されており、ゆでダコ状態で母屋に帰るのが、この家の仕来りであった。

ま、設定といっても、どんどん薪を焼べるだけであり、唯一許可される火遊びでもあったので、わりと喜んでお手伝い(邪魔)をしていた。

その構造は、いわゆる五右衛門風呂と呼ばれるタイプであり、一見用途不明な丸い木製円盤が浮いていた。最初は、てっきり少し小さめな風呂の蓋であろうと考え、それを取除いて風呂釜に入って泣きだしたことがある。もちろん、火傷とともに忘れることのできない記憶として、脳裏と両足に焼き付いている。

当時は、自宅の風呂も同様の形式ではあった。だが、祖父(父の父)が創意工夫を凝らして、同じ木製円盤でも底に鉄板を貼付けて、浮いてこない設計であったらい。したがって、その存在理由を知ったのは、件の火傷を負った後であることは言うまでもない。

母親は、今少し当代風に改築する事を何度となく勧めていたようだが、五人兄妹もその殆どが既に家を離れていたせいもあって、婆ちゃん本人はあまり気乗りはしていない様子だった。

その家に対するカルチャーショックは、家屋の構造だけに留まらない。

台所に相当する場所は、竃(かまど)が二連で構成された土間であり、勝手口といっても玄関横の通路だが、その反対方向の端には北側にある川へ降りる階段がある。ここで何度か、婆ちゃんが米を磨いだり洗濯をする姿を、その横でカエルの足を餌にザリガニなど釣りながら、目撃したことがある。

野菜が植えてある庭の畑に撒く水も、わざわざここから汲んで、桶に溜めては庭まで運ぶという、力仕事も日課のように難なくこなす。前述のトイレに溜まっている内容物とともに、その畑に肥やしとして撒いていた。

電気や水道が無い訳ではないが、純粋な飲料水としての目的以外、要するに洗濯や洗い物など、使用後捨ててしまう水に関しては、主に川の水を利用していたようだ。

季節を問わず、雨戸も閉めずに室内の電気をつけることは悪しきことと教えられ、日が暮れたら早めの就寝がデフォルトになっており、夜更かしなど以ての外である。冬場の就寝時には、雨戸という雨戸は全て閉じられ、電気を消したら何も見えない、本当の真っ暗な異次元空間が作られる。

逆に夏場は全ての窓が開かれ、そのかわりに蚊帳を吊る作業が追加される。もちろん、蚊が入らぬよう消灯することが前提で、お約束のブタの陶器は縁側に置かれて、蚊取り線香がいかにも夏らしい香りを放っていた。

当時婆ちゃんは、某国営鉄道会社の保線区に勤めていたので、朝は相当早く午前四時を過ぎた頃には、その雨戸も開け放たれる。まだ、外が暗いのにいったい何が始まるのかと、興味津々で布団の中から眺めていた。

前日の夕方、庭で薪を割っていた姿は見ていた。で、当然手伝わされたが、風呂焚きにしては随分と多い量であった。やおら、大きな釜を竃に載せたと思ったら、薪を竃に放り込んで火を点けて、下から竹の筒で吹いている。煙がこちらの方にも入り込んででくるので、ずいぶん煙たい。

どうやら、ご飯を炊く準備をしているらしいが、ここにはガスはきていないようだ。自宅では母親が、パロマのガス炊飯器を買った事を、近所の主婦連中に自慢していたのを聞いたことがある。

隣の竃には鍋がかけられ、大きな大根が、庭の畑で採ってきたネギやらイモやらと共に刻まれている。そういえば、裏の壁際に多くの玉葱もぶら下がっていた。そんな野菜も、どんどん鍋に放り込まれているのを眺めているうちに、また眠たくなって寝てしまう。

母親に起こされた時には、すでにちゃぶ台の上には茶碗が並べられて、汁椀からは湯気が出ている。真黄色のタクアンが山積みされた皿がど真ん中にデンと置かれ、鶏を飼っている隣のおっちゃんがくれた卵もある。

その横には、蓋との間に日本手拭いが挟まれたお櫃がある。釜で焚いた、ご飯が移されているんだろう。自分用と思しき、あまり可愛くもない黒い犬がプリントされた、ちょっと小さめな茶碗の前に座る。たぶん、婆ちゃんのセンスで選んだ、のらくろだろう。ほんとは鉄人28号の方が、…。

おもむろにお櫃の蓋が開けられ、部屋中に炊き立てのご飯の匂いが充満して、やっと目が覚めるのだ。

朝食が終わると、例の川へ繋がる階段において、直ちに食器洗いが始まる。だが、いつの間にか洗われているのは、食器から衣類にシフトされ洗濯に移る。着ていた寝巻きまで脱がされ、早く布団を畳むよう促される。

食べた直後からあまり動きたくないので、満腹感に浸りながらぼんやりとしている我母親と、裸に剝かれたまま未だ布団にしがみついている私を尻目に、庭の物干し竿にシーツやタオルなどが所狭しと干される。

以前買った、ローラーの付いた洗濯機の利便性を婆ちゃんに解説していたらしいが、何やら母親に小言を言いながら、あっという間に婆ちゃんは出勤して行った。

まるで嵐が去った後のように、残された者達は何かホッとしたような表情で茶など啜りながら、風にはためく庭の洗濯物を眺めている。

夕方、仕事から帰ってきたら、またもやこの行程がが繰返され、それはもう来る日も来る日も、毎日行われる。とにかく、家にいる時はじっとしているのを見たことがない、茶屋町の婆ちゃんであった。

豊かな生活も少し現実味を帯びだした、昭和30年代初頭の体験である。

今では考えられない、およそ自虐的にも見える生活だ。田舎のローカル線を訪れると必ず脳裏に浮かぶのは、そんな不便を不便とも思わない、たいへん気合いの入った毎日であり、年に何度か訪れた茶屋町の記憶が蘇る。

また同時期、東京(小平)の親戚にもしばらく預けられるなど、ごく短期間に両極端な生活に触れるという激動の幼年期であった。どちらも、たいへん慎ましい生活であったが、何事も程々が良かろうというその後の考え方にも、少なからず影響を及ぼしているように思う。

安易な利便性に対する拒否反応、便利=堕落と結びつける方程式のようなものは、ある年齢層以上の世代は必ずといっていいほど持っている。しかし、周りとの協調性や時代の流れに無闇に逆らうことも躊躇われ、いつしか慣れ親しんでしまう。

町中に住む高齢者には、半径200m以内にコンビニも無いような場所に住めるものか、と言って憚らない連中も少なくない。(我実家にも、約一名いるが)

そんな日々の生活を離れて、辺境の地で目にする景観や、そこでの暮らしぶりを想像すると、自分では到底受入れることもできないものでさえ、魅力的に写るのである。

実際に、それならやってみろと言われても、できるわけはない。若い時に憧れる都会生活の裏返しであり、あくまでも便利な地域から見た、不便な生活でしかない。

せめて写真に撮って、とある風景の一環として眺めるのが関の山だ。

ただ、それを写真に撮っている姿は地元の住民からどう見えるのだろうか、ということはいつも気になる。いかに個人の趣味とはいえ、あまり無神経な行いは慎むべきであろうと常々心がけているが、観光客と違いその地域にはまるで貢献していない。

そんな色々な思いから、益にはならぬが害にもならぬ、出来れば空気や透明人間のような存在として訪れたい、と都合の良い事を考えている。

というわけで、今回も昔話に絡めた姫新線岡山県側シリーズでした。


…ということで、ヒトツよろしく。
2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.22] 鉄撮りの練習:其の拾壱 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月19日月曜日

鉄撮りの練習:其の拾(吉備線)

ついに、練習シリーズも十回目となった。

練習と称して、手当たり次第にそこら中の鉄道を撮っていたら、こんなことになってしまった。

当初はほんのカルイ気持ちだったのだが、毒を食らわば皿までということで、行けるところまで行ってみようと思う。

市内を走る在来線も、岡山駅を起点とする宇野線や津山線、東岡山を経由して乗り入れている赤穂線、倉敷駅を起点とする伯備線など、練習シリーズでもだいたいは網羅してきた。

ただひとつ、吉備線を除いて。

今日でまたひとつ余計に歳を重ねるので、そんな記念に超ローカルな路線も撮り上げてみることにした。

今月に入ってからも、本線以外に津山線や赤穂線などを撮ってみたが、なかなか吉備線に対しては撮影意欲は湧かない。

現在では、キハ40・47系しか走っておらず、この車両には必ずお約束のように見飽きたという形容詞がついてしまうのは、そんな理由でもある。

実家に最も近く、小中学生当時には蒸気機関車(C11)なども見かけた、たいへん親しみ深い路線である。たぶん、一度や二度は乗っているはずだが、あまりそんな記憶もない。

近いと言ってもそれは駅ではなく、あくまでも線路が踏切がという意味であり、その距離は150mもない。吉備線の最寄り駅である備前三門駅は、西へ 500m の場所にある。

だが、市の中心部に向かって東に1km も行けば岡山駅があるので、総社方面にとりたてて用事でもなければ、おのずと乗る機会もなくなる。

高校時代に、通学定期で嫌になるほど乗った津山線とはまた違った意味で、普段の生活に一番近い路線でもある。しかし、だからこそ車や単車、場合によっては自転車や徒歩でも代用できる距離でしかないその経路は、交通手段としての役割から外れてしまう。

その上、高架線化されていない区間が市内を横断しているので、普段の移動においては、その踏切が邪魔な存在として疎まれる路線というイメージが強い。当然、非電化区間の単線である上に新型車も運用されず、キハ40•47 ぐらいしか見かけない。

以前は市内を車で移動中、どうせスカスカのダイヤでしかないはずの吉備線の踏切に引掛るなどということは、よっぽど運が悪いのだろうと考えていた。

だが、あらためて時刻表を調べてみると、上り下り合わせて一日70本近くが運転されている。日中、特に朝夕は往復では時間辺り4本以上はあるので、それほど稀な事とも言えないのである。

三門駅周辺も道路整備が進んで、かつてのような何処へ行くにも回り道に次ぐ回り道、裏道から裏道な状況ではなくなってきている。

車で移動するには、都合の良い環境になりつつあるのだろうが、そんな時に吉備線の踏切にかかってしまうと、大抵口をついて出てくる言葉は「チッ」か「え〜い、クソ」以外には無い。

で、待たされている間に考えることといえば、交通量が少ない吉備線の方が待つべきだろうなどと、身勝手な妄想に終始する。一時停止が必要な踏切なんか全廃にして、いっそ信号にしてしまえば良いのに、と。

ま、車社会を中心に据えれば、考えることは皆同じようで、吉備線を路面電車化してライトレールへ(LRT)の転換も検討されているらしい。

だが、さほど早いとも思えない道路行政に比べても、鉄道関係の変化は民間会社(JR 西日本)の利潤がらみの問題から障害も多いのだろう。構想の発表から十年以上経過した現在でも、せいぜい要望書が提出された程度でしかなく大きな動きはないので、いったい何時になったら実現されるやら、全く当てにならない。

現状では、住民の意識そのものも車中心に傾いているのだから、その手の革新はカメの歩みに等しい。

鉄撮りの練習でさえ、未だその路線を利用したことはないし、現地での移動を考えれば田舎へ行けば行くほど、専ら車や単車に頼るようになる。

よほど、金と暇をを持て余しているなら話は別だが、経費的、時間的なことを考えると、残念ながらそんな余裕は無い。

自分自身の生活を振り返ってみても、公共交通機関に対する関わり合いなど、その程度でしかない。そのことが、前述の信号や踏切に対する、自己中かつ日和見的な考えにも繋がるのである。

したがって、そんな考えも一歩車を降りると少し変わる。実家の周辺を徒歩で歩いてみると、途端に今度は車中心の信号機にムカついてくるのだ。

裏道から、国道や県道へ出て横断しようとすると、大抵は関知式信号であることが多いのだが、ボタンを押してもそう簡単には変わってくれない。

朝夕を除いて、日中の交通量も高がしれているし、徒歩や原付の場合は横断歩道や信号のない路地から強行突破しているので、それ自体普段はそれほど気にしたこともない。

だが、たまにワン公の散歩などで、そんな信号のある横断歩道を通るときもあり、その場で一緒に待っている老人や小さい子供連れた母親は、もう少し良識があると見えて、素直に信号が変わるのを待っている。

いずれ足腰に自信が無くなってくると、横断歩道もない大通りをいつまでも無謀な横断で済ませるわけにもいかなくなるだろうし、いつかはそんな日がやってくるのは間違いないのだ。

頻繁に車が通っている時間帯だけでなく、さほど交通量もない時でさえ、すいぶんと待たされる。もう少し状況に則した、反応が出来るような設定にならないものかと思う。

会社の近くには、前回変わってからある一定の時間(たぶん1〜2分程度)経過していれば、関知した事を示すランプが点灯してから必ず、キッチリ12秒で切替る関知式信号も実在する。(訂正補足:実際に検証してみた。赤になってから、概ね30秒後に停止線直下に止まり関知中が点灯、その後約20秒で切替った。すげ〜、これなら歩行者も苛つくまい。

まるで、関知式信号機の鏡のような存在であり、全ての関知式信号機もこうあって欲しいと思うくらいだ。

これは、歩行者としてだけでなく車や原付に乗って通る時にも恩恵を受けているので、さほど身勝手な意見でもないだろう。

現実に、同じ道をその交差点に対して直交する方向でもよく通る。だが、それほど頻繁に引掛った記憶も無いので、交通量や状況に則した設定が、よほど上手く為されているに違いない。ま、余談ではあるが。

今回、吉備線沿線を三門から足守駅あたりまで撮影してみて、意外と利用者も多い割に、昔から大きな改善はされていないように感じた。といっても、県北のローカル線とは比較にならないものの、1日平均の乗車人数自体、現状ではその数は知れている。

ただ、利用しようにもし辛い状況というのがあるのも事実で、その経路には昨今の情勢には必ずしもマッチしていない場所に、唐突に駅があったり、または無かったりすることが、悪循環のようにも見える。

もっと利用しやすい形態に変わって欲しいという要求から、すでに周辺住民からの署名は数年前から出されているが、今年になって要望書という形でも市長に提出されたらしい。

岡山には、他県ではそれほど珍しくも無い県営市営等の、いわゆる公営の公共交通機関がない。現在の JR 西日本も含めて全て民営であり、政令指定都市ではきわめて稀な存在ではないかと思う。

それ自体がどういう意味を持つのか、また何故そうなっているのか、その理由や背景は良く知らないが、そんなことも改革が進まない一因になっているような気もする。

いずれにしても、こういった社会情勢から、現状の吉備線には今少し現実に即した改善を望みたいものだ。

とまあ、俄仕込みの浅薄な知識で無責任なことを書いても仕方がないので、このへんにしておこう。


…ということで、ヒトツよろしく。
2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.19] 鉄撮りの練習:其の拾 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月16日金曜日

鉄撮りの練習:其の九ノ弐(智頭急行後編)

インターネットでは、鉄道関係の情報には不自由しない。

十年前から知っていたように書いてあることでも、実はほんの15分前に初めて知った情報の可能性だって無いとは言えない。

何でも、一度知ってしまえばそれは常識となり、えっそんなことも知らないのと、エラそうにウンチクを垂れるのである。

もちろん、ネットで手に入る情報にも、間違いや捏造の様なものだってあるし、実体験であっても古い記憶で曖昧だったり、思い込みや憶測、単なる勘違いの場合もある。

とりわけ個人的な感想や印象については、各々の経験や体験、考え方や趣味趣向にも左右されるので、真に受けてはならない。あくまでも、参考程度に留めておく必要はある。

中には、ここのように全く参考にならない情報があったとしても、それが情報化社会の光と影である。真実がが知りたければ、自分の目で確かめるしかない。

そんなわけで、前回に続いて鉄撮りの練習シリーズ第九弾の後編だ。

スーパーいなばへのリベンジと、あわよくばスーパーはくとも上手く撮れたらいいなと考えた智頭急行線へのプチ遠征だったが、ロクに事前の調査もしていない、毎度の行き当たりばったりな撮影行である。

あまり時間に余裕もないので、その場のノリで思いついた、姫新線岡山県側シリーズの企画は次の機会に譲り、上月駅を後にした。

この季節、線路周りでは何処も雑草に阻まれ、地図で探したぐらいでは良い撮影ポイントを見つけることは難しい。結局、実際のフィールドワークに頼るしかないのだが、それでもなかなか落ち着いて撮影できる所は、そう簡単に見つかるもんでもない。

上月から佐用までの間、国道373号線は美作方面からの国道179号線の下敷きになって、途切れているように見える。

たぶん、50センチも掘れば顔を出すに違いないが、佐用駅を過ぎて千種川を渡った所から、北へ向かって再び現われる。

ここから平福駅を過ぎて石井駅辺りまでは、智頭線も国道に沿って北上する。その中間の峠と名の付いた地域で、良さそうなポイントを発見した。

グーグルのストリートビューでは、昨年の工事中の景観しか確認できないが、既に高架線周りの小谷川砂防流路工整備工事と思しきものも、終わっているようだ。

ちょうどこの辺りの、トンネル手前の高架線に沿って登ることができるようになっていたので、そこへ上がってみたのだ。

山岳部では、その殆どが高架線とトンネルで構成されているようにも見える智頭線だが、高架線よりも高い位置に陣取ることができれば、何とかなりそうな気もする。

かなり急な坂道の途中だが、ここへ入る道は軽トラかミニでなければ進入できないほどに狭いので、あまり他車の邪魔になる心配もない。

若干逆光気味ではあるものの、DP3M の画角なら収まりそうなので、手持ちによるテスト撮影の後に、三脚をセットしてみた。

一応、バックアップも兼ねていつもの2台態勢システムである。場所も広いので、SLIK 500G-7 に iPhone もセットして動画用も欲張ってみた。

ひとつ問題があるとすれば、付近に踏切もないので、列車の接近を知る手立てがないことだ。(智頭線は、基本的に踏切は少ない)

時刻表を参考にして大体の時間を推し量り、後はひたすら耳を澄まして待つしかないのである。幸い下の国道を通る交通量も、平日の午後とあってそれほど多くはない。

そよ風と木々の葉の騒めき、鳥の声などに耳を傾けながら、接近してくるディーゼルエンジンの音を聞き分けるのだ。実際、かすかに音が聞こえて特急がやって来るまでには5秒ぐらいしかないので、例によって臨戦態勢を維持し続けなければならない。

ま、毎度お馴染の肝心な時のバッテリー切れや、待機時間が長過ぎて電源がオフになって、撮影モードがリセットされることは何度かあり、未だに失敗写真の量産に貢献してくれる。

各優先モードでは、直前の状態を記憶しているにもかかわらず、なぜかカスタム設定だと電源が切れる直前の状態は維持されず、絞りやフォーカスポイントから設定をやり直す必要がある。

この辺りは、もう一度マニュアルを深読みする必要がありそうだ。

また、あくまでもこちらのミスではあるが、極付けはいつもの2両編成のつもりでシャッターを切ったら、3両編成だったりというお粗末まであって、なかなか飽きさせない。

日が高いうちに、もう少し別の場所も撮っておこうと、その先の岡山県側に移動した。

あわくら温泉駅の先にある、2連の鉄橋からも狙ってみたが、一両のローカルならまだしも、3両編成以上になるとちょっと苦しい。未だ、スーパーはくとのまともなショットも撮れていないし、できれば5両編成を丸ごと収めたいので、今少し智頭よりへ移動してみることにした。

国道373号線も、この辺りでは自動車専用道の無料区間となっており、昔訪れた頃とは随分印象が違って見える。

鳥取県側に入ると、恋山形駅を過ぎたあたりから国道と並行した智頭線は西へ向かい、南側にある智頭線は完全に逆光となる。また、この付近の高架橋は、それまでと違って尋常ではない高度を通っており、下からでは列車もまともに見えない。

ふと高架線の向こうの山を見ると、「すぎの町ちず」と大書きされた、花粉症なら裸足で逃げそうな程デカイ看板が見える。その近くで、先程の峠で目にしたのと似た、なにやら新し気な道が山の上に向かって伸びている。

あそこまで上がれば、先程と同様に線路より高い位置、あわよくば俯瞰での景観も可能なのではないか。実際、1速でしか登れないほどの急坂だ。かなり上の方まで登ってみるが、上に行けば行くほどうっそうとした杉の森に阻まれて、何も見えなくなる。

これでは埒が明かないので、引き返して高架線と同程度の高さで妥協することにした。ここも、峠付近の撮影ポイント以上に急な坂の途中である。

駐車中は、サイドブレーキだけでは不安なので、常に1速または後退にギヤを入れておくのだが、ここももちろんミニの軟弱なサイドブレーキなどで止めることは到底不可能な傾斜だ。念のために、山側に目一杯ステアした上に、前輪にもそのあたりに転がっていた岩をかます。

三脚をセットしてファインダを覗くと画面中央、ちょうど線路との中間に一本の桐の木があり、その枝と花が邪魔になるポジションしかとれない。

だが、それはあくまでも鉄道写真としてであって、風景写真の一環として捉えるなら、それもノープロブレム。ということで、ここに陣取ることにした。

さすがに、ここからの距離だと DP3M 以外の出番はなさそうなので、レベリングベース上には DT-02 のみのシンプルな構成にした。だが、例によって SLIK 500G-7 に取付けた動画用の iPhone は、一応用意してみる。少し浅い角度でセットしてみたが、 iPhone の画角ではどうしても左の杉の木をフレームアウト出来ない。

かといって、メインの三脚からあまり離れた位置に置くわけにもいかない。あまりバッテリーも残っていないので、なるべく手元に置いて無用な長回しは避けるべく、列車の接近と共に録画を開始しようと企んだのだ。

毎回、あまり欲をかくとロクなことにならないのは、既に何度も経験済みであるはずだが、今回も全く学習機能は発揮されなかった。

如何に軽量な iPhone といえど、アングルを決定する時に思ったところで止まった試しがない SLIK 500G-7 である。フォーカスロックをかけようとして液晶に軽く触れただけでも、微妙にポジションがズレてしまう。やはり、いざとなるとお勤め品では頼りにならない。

少し風も出てきたこともあり、そのセッティングに手間取っていた。そんな矢先に現われたのが、特急スーパーはくと9号(59D)である。

慌てて iPhone の録画を開始したが、もうすでにトンネルから先頭車両が出ている。なんとか、撮影ポジションに入るまでの3秒以内に DP3M に戻ったものの、セーブモードを過ぎて電源が切れており、シャッターを押しても全く反応無し。

なんと、ご丁寧にもこの特急スーパーはくと9号は、それまで撮った何れにもなかった前後とも非貫通形先頭車(HOT7010/7000)の構成であり、絶好のシャッターチャンスを逃すという為体である。

思わず自己嫌悪の叫び声を上げてしまった、が後の祭り万事休す。

失意のどん底から復帰するまで、およそ15分は要したであろう。ちょうど、10分後に通過する12号(62D)の後追いにも、まったく力が入らない。(先頭車両は HOT7020 だが、鳥取側の最後尾は HOT7000 がせめてもの慰め)

その後、意気消沈で智頭町からは慣れた道、国道53号線を今日の反省点などを振り返りながら、大人しく帰って行くことにしたのである。

やはり、遠征する場合はもう少し綿密な撮影計画を立てて、撮影現場では準備を怠らないようにしないと結果はなかなか向上しないという、あまりにも分かり切った教訓を痛切に感じた一日でした。

ま、たぶんこの次も、おんなじようなことを繰返して、おんなじようなことを書くと思うけどね。


…ということで、ヒトツよろしく。

2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.16] 鉄撮りの練習:其の九ノ弐 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月12日月曜日

鉄撮りの練習:其の九ノ壱(智頭急行前編)

なかなか練習が終わらない、鉄撮りの練習シリーズである。

これは、ひょっとして練習のみで、生涯本番は無いのかもしれない、という気もしてきている今日この頃。

ま、それならそれでかまやしない。百パー趣味の写真、結果はどうあれ過程こそが重要だ。

岡山駅からの路線は、在来線では山陽本線の他に当駅が起点の宇野線、津山線、吉備線を始め、赤穂線、伯備線なども乗り入れている。

県内には上記の他に、津山から鳥取に至る因美線、備中神代を起点として広島までの芸備線、兵庫県の姫路から津山を経て新見に至る姫新線、兵庫県の上郡を起点として鳥取県の智頭に至る智頭線なども通っている。

また、JR線以外では、井原鉄道や水島臨海鉄道などもあって、路線の数だけは結構多い方だと思う。ただ、県内ではその路線を走っている車両にあまり目新しいものはなく、旧国鉄時代からの車両が大半を占めている。

で、たまには変わった列車も撮って見たくなるのが人情だ。

ちょっとだけ、岡山県を外れてみるのも一興かと考え、今回はスーパーいなば(キハ187系)へのリベンジを果たすべく、智頭急行線の区間に狙いを定めてプチ遠征してみたのである。

そんなわけで、鉄撮りの練習シリーズ第九弾の前編だ。

智頭線は、兵庫県赤穂郡上郡町の上郡駅から、鳥取県八頭郡智頭町の智頭駅に至る智頭急行の鉄道路線である。途中、ほんの僅かに岡山県側をかすっているが、京阪神と鳥取を結ぶ短絡線としての意味合いが強い。

開通までの、すったもんだの歴史はここでは割愛するが、前述の井原線と並んで、かつては開通の見込みは絶望的と思われていた路線でもある。

この路線を通る特急は、岡山発の「スーパーいなば」に加えて、京都発の「スーパーはくと(HOT7000系気動車)」も運転されている。「いなば」と「はくと」を合わせて因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の神話に引っかけているらしい。

いなばも部分的に黄色なだけでそっけないデザインだし、はくともボディカラーは青が基本のステンレス製でしかなく、何処も白ウサギというほどでもないので別に面白くはない。いっそウサ耳でも付けてイタ電にすれば、一部にはウケが良いだろうにと思う。

それでも、流線型の先頭車両のデザインは、瀬戸大橋線の 8000系電車特急しおかぜより、個人的にはマシだと思う。(気動車だしね)

で、実際にその路線を辿ってみて、愕然としたのである。

上郡から北の山岳部に入れば、少しは速度も落ちようと考えたのが甘かった。この路線、鉄建公団の新線なので殆どが高架線になっており、いなばもはくとも山間部であろうが、全力疾走しているのだ。

ま、考えてみりゃ当たり前で、昔の山陰本線の特急に引導を渡すべく建設が再開されたぐらいだから、そんなにノンビリと走っているわきゃあないのである。

そんなことに気付いてから、上郡駅から先へ行く足取りも俄に重くなってしまった。姫新線の上月あたりで、岡山県側にはやってこないキハ122系気動車でも撮ってお茶を濁しておくかとも考えた。

姫新線は、兵庫県の姫路駅から津山を経て新見駅に至る地方交通線である。地方交通線は、幹線と異なり特別急行などの列車は運行していない。

姫新線といっても現在は名ばかりで、その実態は姫路〜佐用(上月)・佐用〜津山・津山〜新見の3つに分かれており、全線を通して運転される列車はないそうだ。

姫路〜上月間は、前述のキハ122•127系が運行しているが、佐用〜新見間では芸備線や津山線でも見かけたキハ120系、津山〜新見間ではお馴染の見飽きたキハ40•47系のみの運行である。

ちなみに、このキハ122系気動車は、90年代の製造である見るからにブサイクで雑な外観のキハ120 などに比べると、その湾曲した広い前面ガラス面積など、2000年以降に設計・製造されたキハ189系特急形気動車などにも通じる、より洗練されたデザインにも見える。

これは、同じ製造会社の単なる年代の違いだけでなく、新潟鐵工所が潰れて、新潟トランシスになったことも影響しているのだろう。 かつて、京浜東北線で蒲田に通学していた時に目にした、およそ鉄工所という名前に不釣り合いな、新潟鐵工所のデカイ本社ビルを思いだす。

なんでもいっぺん潰れりゃ少しはマシにもなる、ということなのかもしれないが、何かが犠牲になるのは避けられないはずだ。

この日、上月で見かけたキハ122系気動車も、当駅からまた姫路方面に引き返して行く。

この手の新製車両、費用の一部を県や沿線自治体も負担することが背景にあって、岡山県側である隣の美作土居へは、そう気軽に行けないようになっている。

また、上郡から上月に来る途中の国道373号線からも、千種川周辺の大規模な護岸工事を目にした。何かと、貧しい上にドケチな岡山県と、羽振りの良い兵庫県の違いを見せつけられる思いである。

ちょっと調べてみると、このキハ122系気動車は、姫新線輸送改善工事に伴って導入されたもので、その事業費の一部は兵庫県、姫路市、たつの市、佐用町が負担しているらしい。従って、金も払わない岡山県側へ走らせるのは、よっぽど悔しいに違いない。

駅名を表示する看板も、会社が違いますとばかりに兵庫県は朱色、岡山県は紫と色が異なる。線路は続くよ何処までもとはいいながら、見た目は長閑な一本の路線にも、目には見えない境界線が存在している。

某国営鉄道会社の頃には、さほど気にならなかった境界線があまりにも明確になり過ぎて、公共交通機関のあるべき姿としては、如何なものかという気もする。

それにしても、相変わらず岡山は、何をやっても半端な県であることを再認識させられる。ま、そこが岡山の魅力だが、県境あたりに住んでいる方々は、いったいどう感じているんだろうねえ。

そんなこんなで、上月でキハ122を撮っている内になんかムカついてきたので、気を取り直して佐用から先の智頭急行線を撮りに行くことにしたのだ。

そのへんは、次回以降の後編(鉄撮りの練習:其の九ノ弐)につづく、…かな?


…ということで、ヒトツよろしく。
2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.12] 鉄撮りの練習:其の九ノ壱 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

2014年5月9日金曜日

鉄撮りの練習:其の八(津山線)

歳と共に物覚えが悪くなり、物忘れが酷くなる。

脳がノートだとすると、たぶん若い時は6Bぐらいの濃い鉛筆で、筆圧も強く書いていたが、最近は4Hぐらいの薄い鉛筆で軽く書いているのだ。

元々覚えていないことは、忘れることもできないし、忘れたことさえ覚えていないのだから、思い出せるわけがないのである。

3日前に何を食ったかなどは、既に思い出せないが、30〜40年前のことは何時まで経っても忘れない。

ま、生まれてもいない昔のことなど、若い者には思い出せるわけがないのだから、これは年寄の特権である。

それこそ、昔話をさせたらネタは尽きない。思い込みも酷い上に、記憶も曖昧だからいくらでもホラ話が膨らんで、収拾がつかなくなるぐらいだ。

今回は、先月末に撮った津山線である。

玉柏駅と牧山駅、建部駅の周辺および福渡の手前あたりまで巡ってみた。わずか半日程度だったので、少し中途半端に終わった感もあるが、たいへん懐かしい想い出に浸れた日でもあった。

学生時代には、およそ半年に渡って津山線で岡山〜津山間を通った。

あまり楽しい想い出というわけでもないが、何でも時が経てば懐かしく思える。そのへん人間が適当に出来ているので、嫌なことをいつまでも引きずることがなく、ある意味助かる。

たしか、岡山発 05:56 の津山行きの鈍行で、津山には 07:20 頃の到着なんで中途半端にも程がある時間帯だ。だが、その次の便だと津山着が午前9時を過ぎてしまい、始業に間に合わない。

当時、同級生が一人、途中の備前原から乗って来て一緒に通っていた。早朝の備前原では乗降客もほぼ皆無で、扉も手動で開けないと勝手には開いてくれない。

キハ20 は、旧式なデッキタイプと違って、客席のど真ん中に出入り口が配置されたいた。まだ早朝には肌寒い季節、どこかの扉が開けられたらたちどころに目が覚める、たいへん迷惑な非寒冷地仕様でもある。

そんな駅に停車中、全く扉が開かない日もあり、あいつまたサボリかと思っていたら、次の玉柏駅から乗ってきたりする。

ま、人のことが言えた義理でもなく、自分自身もよく寝過ごしては、親父に車で途中の駅まで送って貰ったことは、何度となくある。

大抵は岡山の隣の法界院だが、ここを逃すと備前原では停車時間が短か過ぎて間に合わない。よって、一気に玉柏まで全力疾走というのが、お約束となっていた。旭川の土手を走る、県道27号線を列車と競争するのだが、ほぼ直線のこの区間なら、気動車ごときに負けることもない。

ぶっちゃけ、そんな時間の国道県道は車など殆ど走っておらず、飛ばし放題な無法地帯に等しい。今と違って長閑な時代、昭和48年頃である。

だが、玉柏を逃すと万事休すである。次の牧山や野々口へは、玉柏方面からのアプローチでは、その経路に紆余曲折がありすぎて、当時の我家のファミリーカー(カローラ20)では、幾ら親父の腕を持ってしても間に合わない。

明らかに、無理があることが分かっている場合は、国道53号線を経由して野々口まで行くしかない。で、実際にそれも一度やったことはあるのだが、いったい何が楽しくて、そんな早朝のレースもどきを展開していたのか、よく覚えていない。

単車では、それなりにブイブイいわせていたアホな高校生だから、ことスピードに関しては一般人よりも敏感で、自動車の運転についても全くの素人ではなかった。そろそろ、自動車免許の取得を視野に入れていた時期でもあり、時々は練習と称して深夜に…、な時代でもある。

そんな早朝ドライブ、親父も満更ではなかったようだ。そうでなければ母親と違ってさほど教育熱心でもなかった親父が、馬鹿息子の遅刻を防ぐだけの為に朝っぱらから文句も言わず、あれほど情熱を燃やしていたとは思えないのである。

だが、母親から聞く限りでは、普段は安全運転に徹していたという印象であり、助手席に乗っていても全く不安はなかったので、よほど運転が上手かったのだろうと想像する。晩年は、タクシーの運チャンもしていた親父だが、体調崩してからは母親専属の運転手になっていた。

もともと、遠距離通学のきっかけとなったのも、前年に単車で事故って長期入院から休学を余儀なくされ、留年した3年目の2年生としての通学である。

一年半ほど住んだ下宿も入院中に引き払い、当面自宅から通学をしながら新たな下宿先を探すというのが、主たる目的であった。

真夏(7月初旬)に入院して、退院したのは既に秋も終わろうとしていた11月頃である。

入院が長かった割に(人間の被害の割に)当の単車の被害は極めて少なく、レバーやクランクケースの交換程度で完全に復活していた。だが、見方によっては意識的に単車の被害が最小になるような当たり方をしたからこそ、人的被害が大きかったと言えなくもない。

退院後、松葉杖もとれないうちからスキーに出掛けたり、明けて春先には九州ツーリングを敢行するなど、自分が親の立場になってみれば、呆れ返って物が言えない、親不孝にも程がある放蕩ぶりである。

母親にしてみれば、復学が許されただけでもめっけものなでくの坊が、親元を離れたらロクなことにならないのは明白であり、自らの監視下に置くことの方がメインであったに違いない。

通い始めた頃、早朝北へ向かう列車に乗っていれば、進行方向右側から朝日が差すので、ゆっくり寝たい時は(たいていそうだが)当然、左側の席に陣取る。ところが、福渡を過ぎて神目までの間には、左側の窓にも朝日が直射するのだ。

もちろん、この時列車は北でなく南に向かって驀進しているわけで、そんな豪華客船クルーズような、行きつ戻りつなルートを通れば2時間かかっても仕方ないわな、と納得出来るのである。

そんな津山線にも慣れてくると、どうせ遅いんだからと諦めて(ダイヤ通りに走っているので当たり前だが)、その間の楽しみを探すようになる。実質1時間半近く往復で3時間以上、ほぼ毎日気動車にのっていれば、いろいろなことにも興味が湧く。

なにせ、当時の気動車キハ20系は、悪名高き非力な機関(DMH17C)を搭載しており、金川から建部に至る上り勾配では、それはもう悲惨なぐらい遅い。思わず、降りて押してやろうかと思うほどだ。

後に、そのスペック(180馬力程度)を知って愕然とした。当時の単車や自動車に興味を持ち始めた高校生にとっては、俄に信じられないパワーウェイトレシオであった。だが、そんな非力なパワーでさえ30t 以上もある車体に、乗客を乗せて登坂できることに感銘を受け、もっと後にディーゼルエンジンに興味を持つきっかけにもなった。

ただ、車体を震わせながらエンジン全開で頑張る気動車(結果どうしようもなく遅いのだが)に乗るのは何となく好きだった。とりたてて必要もないのに、急行砂丘号(キハ28/58)に乗ってみたり、ずっと後になってからではあるが、山陰本線の特急あさしお(キハ80系)などにも、乗ることを目的として出掛けたこともある。

また、車両に関することだけでなく、沿線に対する興味も尽きない。津山線沿線の駅が、中間点にあたる福渡を対称に非常によく似ている点も、その時に気付いたことである。

中間の福渡駅はさておき、法界院に対する津山口、備前原に対する佐良山、玉柏に対する亀甲、牧山に対する小原、野々口に対する誕生寺、金川に対する弓削、建部に対する神目など、その間に存在する各駅の佇まいは非常に似通っていた。

おお、シンメトリーぢゃあ、とばかりに新発見でもしたような気になって、何人かの友人にも話したことがある。だが、概ね冷たい反応で、ふ〜んそんなもんかね程度にしか、反応は帰ってこなかった。

そんなことを思いついたきっかけは、通学途中のある時、寝ぼけて上りの津山行きに乗っているにも関わらず、帰宅途中で岡山に向かっているかのような錯覚を起こしたことが、発端となっている。

居眠りをしながら、たまに目を覚ましては、今どの辺かいなと確認するのであるが、上記のようなシンメトリー状態だから、福渡を過ぎた辺りから行き先が怪しくなるのも不思議ではない。

津山駅が岡山駅西口(当時はこちらも良く似ていたし、瓜二つといっても過言ではない)と思い込んで、改札近くまで気がつかなかった。正確には、定期を見せて改札を通過して、駅前の町並みを見て初めて目が覚めたのである。

もちろん、寝たまま改札を通るぐらいの技は、当時の早朝汽車通連中は当たり前に習得していたことは、言うまでもない。

そんな津山線での通学も、半年も続けた頃には飽きてくる。程なく、新たな下宿先を見つけては、母親の反対を押し切って下宿生活を再開させた。

当時、我が校は単車はもちろん、車通学でさえ禁じられていない放任校であったが、自宅から単車通学など両親が許可するわけもない。下宿先に持込むことさえ固く禁じられて、まるで人質を捕られたような状態である。

以前は、月に一度でさえ実家に帰ることはなかったが、最愛の単車が抑留状態では、毎週帰らざるをえない。従って、これが唯一下宿を許される最終条件として母親から提示されたのは、宜なるかなである。

週末、実家に帰る時はたまに奮発して、急行砂丘号に乗ることもあったが、大抵はまだ通用期間が残っていた、通学定期で乗れる鈍行である。急行の最短が確か1時間9分で、最遅の鈍行は行き違いの待ち合わせなど入れて、なんと2時間近くかかるものさえあった。

山陽新幹線が、新大阪まで開通して間もない頃だが、岡山市民にとって津山は大阪より遙かに遠かった時代でもある。

今から思えば、たった半年ほどの短い期間であったが、いろんな想い出が詰まった津山線である。いずれ時間が許せば、より津山方面に向けて、撮影に赴くこともあるやもしれない。

そんな、太古の想い出に浸りながら訪れた、玉柏と牧山駅でした。



…ということで、ヒトツよろしく。

2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.09] 鉄撮りの練習:其の八 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく