2012年11月12日月曜日

春よ来い

Mac OS 改め OS X も 2001年のファーストバージョン以来、そろそろ12年目に突入しようとしている。

以前、スティーブはOS(ソフトウェア)の寿命は10年程度であり、大きな改革によって更新がなされないと生き残れない、みたいな説を持論としていたように思う。そろそろ、賞味期限が切れてんぢゃねえのかコレ、と感じることも少なくない最近の Mac OS について。

新たな10年の入り口かと期待されたライヨンも、1年程度でその役割を終え勢い山に登ってみたものの、既に10.9の噂も聞こえて来る。次は、海に潜るのかそれとも空を飛ぶのかは与り知らぬところではあるが、OS 11 になれば何かが変わるのだろうか。

10余年前に Mac OS X を初めて見た時の、あの期待と絶望の狭間で揺れに揺れ、眩暈すら覚えたような衝撃にまたもや襲われるのだろうかと思うと、今から楽しみでもあり憂鬱でもある。

OS X 以前からの Mac ユーザでさえ、もう既に忘却の彼方かもしれないが、初期のMac OS には正式な呼び名もない、Macintosh のオマケみたいなものであった。

今では俄に信じられない話ではあるが、ユーザが新たにフォルダを作る機能さえもない。起動ディスクには、システムフォルダと共に空フォルダ(empty folder)がひとつだけあって、これを複製して使えという、まるで冗談みたいなシンプルさである。

その後、アップルからも開発者向けにリソースエディタ(ResEdit)なども配布されたこともあり、有志(マニア)によるカスタマイズ文化が形成され、安定度と引き換えに自由度は広がっていった。スタンドアローンな環境に対して、さほど違和感もなく使っていた時代であるが、初期のマックOSに感じた、狭い場所に閉じ込められたような閉塞感は希薄であった。

その主たる要因は、ネットワークによるものであろう。

もちろん、インターネットがごく当たり前のようにある、今のコンピュータを取り巻く環境とは、全く別の意味である。当時は当時なりに、電線に頼らない伝染というものがあり、パソコンショップが寄合処としての役割を果たしていた。

フロッピーディスクを携えてのショップ通い、情報交換という名のファイル交換は、形態こそ異なれど今も昔も変わりない。情報網としてのネットワークは、当時にも確かに存在していた。ただ、情報の伝搬速度は非常にゆっくりで、かつ限定的なものである。

しかし、そのようなユーザが感じるようなまったり感とは無関係に、アップルの企業としての行き詰まりの影響は、容赦なく襲いかかる。アップルが、起死回生を賭けて発表された Mac OS X の登場により、一度は手に入れた自由度もアップルによって閉じられてしまう。

さすがに以前のような、ユーザによる無茶振りなカスタマイズはなりは潜めたものの、OS 自体がバージョンを重ねるごとに機能を増すことで、パンサー以降はさほど不自由を感じることは少なくなった、という実感はあった。

コンピュータから、より広いモバイル市場を目指して開発された iPhone OS (iOS) 。イベント会場において発表された OS X を採用したという事実とは裏腹に、ファイル管理などに関する手枷足枷感など、デビュー当時の iPhone OS (iOS) に対する感想は、それこそ OS X 以前の黎明期に近いものであった。(対象ユーザ層の裾野を広げるには、必要なアプローチではあるが)

Mac OS 9 以前を使ったことのある者にとっては、OS X でさえ、ピクチャ、ムービー、ミュージックなど OS 側から保存場所を規定されること自体、大きなお世話だと感じたものだが、それさえもない iPhone OS (iOS) がよもや Mac の方に向かって逆風のごとく押し寄せてくるとは、想像もしていなかっただろう。

現状の OS X では、このような OS による分類規定自体が、既に破綻している。

iTunes が動画も扱えるようになってから、俄にそれまでの Music Folder を iTunes Media と改名したところで、所詮ムービーフォルダではなくミュージックフォルダの中にあるわけだから、無駄な足掻きにしか見えない。ましてや、iCloud の保存領域などアプリごとに分けた時点で、使い勝手を大きく阻害していることが、なぜアップルには分からないのだろう。


自分で作った原稿や報告書などを後日編集しようにも、使用したアプリを常に意識していないと開けないようでは、使いやすいとはいえない。あげくに、ファイルを管理することの権利そのもの奪い不可視化するなど、言語道断ではあるまいか。


実際、「書類」フォルダに書類を保存しているユーザは、どのくらいいるのだろう。さまざまなアプリが手前勝手なフォルダを作り散らかし、自分専用になっていない「書類」フォルダである。

アドビのアプリなどインストールしようものなら、「Adobe」と名の付くフォルダを共有フォルダやユーティリティフォルダをはじめ、ありとあらゆる場所に撒き散らす。エイリアスまで含めると、いったい幾つあるのか数える気にもならないほどで、その場所に意味があるとも思えない上に、ファイル名からしておよそ一般ユーザの目からは汚物にしか見えないものばかりである。

もちろん、思い切って捨ててしまえばスッキリするのだが、アプリからはそれなりの報復を受けるので、遠慮しているユーザは少なくない。何のために Application Support というフォルダやパッケージが存在するのか理解していない大馬鹿野郎であり、保存場所を規定するならヤツらにこそ守らせるべきである。ウンコはトイレでしろと、…余談である。

で、大抵のユーザは、書類を見えるところに置いておきたいという心理と、そのようなバカアプリが勝手にフォルダや訳の分からない書類を作らない平穏な場所、デスクトップに書類を保存するようになる。

人によっては、それこそ目がチカチカする、星の数ほどの書類やフォルダで埋め尽くされて、デスクトップピクチャさえ必要のない(あっても見えない)光景を目にすることもある。そんなユーザでも、目的のファイルを探し出すのは Spotlight よりは遥かに早く、なおかつ確実である。(人間の、環境に対する順応性の高さを垣間見る瞬間でもある)

当然のことながら、だいたい画面上の場所やアイコンの色や形で覚えているので、その場所が移動されたり、順序が変わってしまうとパニックになる。が、それもユーザの自由であろう。

もし、このような実態をアップルが知っているなら、iCloud で共有すべき保存領域はデスクトップであり、OS による余計な分類は迷惑であると、気付いても良さそうなモノだが。

ユーザが気にするのは、その書類を作成したアプリケーションの種別ではなく、内容である。動画であろうが、音声であろうが、写真であろうが、手紙であろうが全く関係ない。それが、家族や友人や仕事に関係するモノなら、すべてユーザが自分で決めた場所にまとまってあって欲しいのだ。

ぶっちゃけ、見えるところに置いておきたいという願望を突き詰めると、今そこにある、そのファイルであり、もはやその内容でもなくファイル名なんぞであるはずもない。要するに、見れば分かるという種別であり、内容が分からないから開いて確認したいファイルだってあるし、そんなファイルに付いた名前はたいてい「名称未設定」である。


しょっちゅうインデックスを作り直さないと、全く当てにならない Spotlight や、凝り過ぎてむしろ使いづらい項目の並び順序機能より、もっとスマートな形で「そこにある、あれやこれ」を実現できないのだろうか、と常々思う。


「マイファイル」に出てくるのは、出てきて欲しくないモノばかりだし、メモとリマインダー、カレンダーや連絡先を分けることも、ユーザにとっては本来意味がない。
とりあえず、書いた後にそれがメモなのか、リマインダーなのか、カレンダーなのか、連絡先なのかはユーザが決めれば良いことで、分類なんぞは後から行えば済む話だ。


欲しいのは、自分が作ったモノが確実にそこにあって見える場所であり、分類はそれをしたいユーザに任せておけばよいと思う。そして、そこが iCloud により各ディバイス間で共有したい場所である。


どうも、最近の iOS との統合のしかたを見ると、真逆なアプローチになっているようだ。


ま、Mac OS の歴史を振り返ってみれば、開けば閉じ、閉じればまた開くの繰り返しであり、まるで10年周期で繰り返される、季節の移り変わりを見るようだ。そのような視点から見れば、さしずめ現状の Mac OS は、二度目の冬の時代に突入しようとしているようにも見える。

今後、iOS との統合が進み、アップルの独自開発プロセッサなどが採用されるようになったら、果たして Mac OS に春は来るのだろうか。


…ということで、ヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan


[2012.11.12] 春よ来い 〜より転載&加筆修正

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