2012年11月2日金曜日

キモチワルイ、レトロ趣味

スコットネタで、ついでにもう一席。

標的にされているひとつが、iOS のインターフェイスに多用されているスキューモフィック・デザイン(Skeuomorphic Design)である。工芸品や実際のテクスチャなど、現実世界のモチーフをエミュレートしたものというのが定義らしい。スコットはその強い信奉者であり、それはまた、スティーブの要望でもあった。


ここで、ひとつ私見を申し上げておく。それの何処が悪いんだ、と。


おう、MacBook Air のカバーは buzzhouse design のハンドメイドレザーケースだし、iPhone 5 のケースは SPIGEN SGP ヴァレンティヌス/ビンテージ・ブラウンだ、文句あっか?


工芸品のような見かけは時代遅れで、コンピュータのユーザインターフェイスには不必要である、というのが反対する陣営の主たる言い分らしい。要するに、電子ブックが紙でもないのに本の形をしているのはおかしい、と言うことだ。


アップルでは、重鎮であるジョナサン・アイヴがその推進者であり、ことごとくスコットとは衝突していたらしい。
一部のイギリス人にとっては、重厚なデザインの建築物が街中にあふれ返っている景観は見飽きているのだろう。しかし、その反動がミニマルに結びついたというのでは、あまりにも短絡的すぎる気もする

優れた外装デザインと、ユーザインターフェイスではモノが違う。サー・ジョニーの称号を持つアイヴに対して失礼は承知で提言するが、眺める美しさと触れる心地良さが、同じデザインであると考えているのなら、とんでもない思い上がりであるし、何でも統一されりゃいいってもんぢゃない。区別もできない意味のない統一は、かえって混乱を招くだけだし、使って心地良いものはたぶんミニマルとは対局にあると思う。


もちろん、実際のお手並み拝見しないと、勝手な評価は無礼千万極まりないことは、自分で書いていても分かる。しかし、コンピュータの外装に関しては、その手腕に文句の付けようがないと尊敬しているが、あんたがデザインした部屋には絶対に住みたくないとも思っている。ましてや、工芸品のような見かけは時代遅れと一刀両断に斬って捨てられたら、ましてや、外野の方からもレトロ趣味、気持ちワル〜イなどと罵倒されりゃ、腹も立つ。(別に、ジョニーがそう言ったわけぢゃないんだけどね)


iPhone や iPad と Windows Phone の Metro UI を比較してみればわかることだ。
まるで、街頭の看板のようなデザインが画面一杯にちりばめられ、色自体にあまり意味のなさそうなわりに、やたらケバイ色使いは、無駄に疲れると思うが、あれが平気な連中がいるという事実に恐れ入る。ほんと、個人の趣味は多種多様だな。

ただ、この手のインターフェイス論議については、今に始まったことではない。

Macintosh 黎明期のソフトに ジャム・セッション(Jam Session)とかスタジオ・セッション(Studio Session)というがあった。

前者は、ミュージシャンの絵柄をバックに音楽が流れ、そのジャムにキーボードやマウスでサンプリング音源を操作して参加できるというもの。後者は、画面上にまんまカセットテープレコーダを表示し、テープが回る様子まで再現した、ある意味バカバカしいソフトである。当時のモノクロ9インチディスプレイに表示されたそれは、現代のコンピュータグラフィックスを見慣れた者からすれば、アホらしさの極地のような見かけではあったが、その楽しさはそのグラフィックスのクオリティとは無関係である。


もちろん、マックユーザ達には概ねバカウケであたのだが、当然、非マックユーザ(現在のアンチに相当する)連中からは、あらゆるツッコミが入った。極めて無駄の多いインターフェイスであるとか、貴重な資源を浪費する非効率的なプログラムであるとか、それはもうボロクソである。


ま、業務で電子計算機に関わる者から見れば、ウクレレ片手にアロハで企業面接に臨むようなものだから、仕方あるまい。


ただその当時、本心から仕事のために必要だからという理由付けでコンピュータを購入する者は少ない。自家用車でも買えそうな値段のキカイを身銭を切って買うのだから、ビジネスツールというのは資金捻出と周囲(および自分を)の納得させるための口実であり、突き詰めて言えば実際、ほぼ遊び、ただの道楽、むしろ面白そう、みたいな?…だから買うのである。


事実、Mac のそのような機能に対して批判的な連中は、自腹でコンピュータを買ったことがない、または買う気もない者が多かったように思う。公然とコンピュータはゲーム機ぢゃない、といって憚らないし、
コンピュータに対しては期待するのは、処理能力と計算結果のみ。旅行に出掛けてもその行程は苦痛に過ぎず、何処でもドアを欲しがるような、典型的な「ドリルではなく、穴が欲しい」連中だ。

その後に登場した Windows の方が一般に広く受け入れられ、特に業務用という用途では Mac が門前払いに近い状態にあった歴史的事実を見れば、たぶん、今も昔もそんな連中の方が、数的には多いのだろう。つまらんね。


スキューモフィック・デザインに対する、反対派の言い分。

現実世界のモチーフを表現するために機能的に必要でないものまで取り込み、単純にそれは余分なものとなる。無くても済むものはどんどん削り、必要性のみで構成された美しいデザイン、と言いたいのだろう。

余分が必ずしも不要とは思えないが、
もし、今後アイヴ主導でユーザインターフェイスが変更されるとしても、iOS のアップデートの時にアイコン内のギアが回らなくなったら、たぶん怒るヤツは少なくないと思うな。それ自体に意味など、それこそ不必要だ。

スチーム・パンクまでは必要ないにしても(嫌いぢゃないけど)、なにか暖かみや潤いのない寒々しさと、過剰な統一はファシズムの匂いすら感じる。そこはやはり過ぎたるは、であり、ある程度は選択肢で賄うしかないと思うがね。

特に最近の若者は、そのようなアナログ的なモノに対して使った経験もないから、現実を連想させるという効果がない上に、固定観念にとらわれて新しい手法を見いだす可能性を無くすことが、懸念されるらしい。
また、理解できるかどうかは、ユーザーの経験値次第なので、無駄にハードルを上げる必要は無い、と。

直球で受け取れば、まるで交差点で曲がる時にウィンカー出す人最近少ないんだから、出さなくていんぢゃね、みたいなものである。学校教育においてさえ、いまさら古くさい時代遅れな歴史の授業は不必要とでも言いたいのだろうか。だって、恐竜や北京原人なんか実物見たことねえもんな。


最近、iPod の売上げが低迷して、主たるユーザである低年齢層をなんとか、上位の iOS 機器にステップアップさせたい気持ちは判るが、なんでそこまで、幼稚なガキどもに媚を売る必要があるのか、全く理解できない。本来、知らないことの方こそ問題視されるべきで、そのために教育があるんぢゃなかったのか。

もう温故知新という言葉の意味も、教えていないのだろうか。

別に、iOS が教育的である必要はないが、無知な者に基準を合わせてどうするんだ辞書を引けと、ジェド・バートレットも言ってたし、「無知は罪であり、馬鹿は罰である」と、戦場ヶ原ひたぎだって言っているぢゃないか。


…ということで、今月もヒトツよろしく。
2012年11月某日 Hexagon/Okayama, Japan

[2012.11.03] キモチワルイ、レトロ趣味 〜より転載&加筆修正

0 件のコメント:

コメントを投稿