2012年12月15日土曜日

ユーザ・インターフェイス

前回の iTunes 11 に対する不満は、ユーザ・インターフェイスに関する考え方の違いが根底にあるように思う。

一つには機能と、もう一方にはデザインがあるように思われがちだが、この両者には密接な関連があり、実は同じものであることが多い。


OS X のウィンドウ左上にある信号のような三つのボタン、ファインダを筆頭に各アプリケーションのウィンドウにも必ず存在する。タイトルバーに相当する位置に横並びがお約束だが、唯一の例外が iTunes の前バージョンでミニプレーヤを選択した時に限り、縦並びになる。アップル自ら犯した掟破りであり、後にも先にも例がない。


で、今回はミニプレーヤにおいてはウィンドウにあらずと勝手なルールをでっち上げたのだろう。縦にも横にも、三つのボタンを配置すること自体を止めてしまった。


ま、それさえアップルの勝手なんだから別に論うつもりも無いのだが、タイトルバーまで無くしたのなら、いっそ iTunes は特別なウィンドウということで、旧来のアクアインターフェイスを止めて、専用のデザインを興せば良いと思う。どうせ、ファインダ上でのファイルの並び方も異なることに対して問題がないと考えているのなら、似て非なるものより混乱は少ないだろう。


仕事柄、いろいろなタイプのユーザをサポートすることが多いが、Macintosh を業務で使用しているユーザには、新しいことを好まない人々も少なくない。


古くからの友人である某商店主などは、頑なに一度覚えた操作法を変えようとはしない。基本的に、ショートカットは使わない。コマンドは、メニューからの選択一辺倒であり、メニューにない機能は無いモノとして片づけられる。目に見えるものが全てであり、見えないものは信用しない、使わない、という点においては徹底している。

新しい機能など迷惑だと言わんばかりで、自分の用途にとって不必要なバージョンアップは、とことん毛嫌いされる。安定こそが命であり、リスクを伴うような多機能化などもっての外である。

業務使用であるからといって、作業効率などは優先順位として必ずしも高いわけではない。たいていは、自身の理解の範囲を超えたモノに関して興味を示すことはなく、言い換えれば身の丈に合った使用法を好み、多少の不便は気合いと根性で乗り切ってしまう強者である。

さしずめ回転寿司なら回っていないモノは食わない、特別な注文などしない。と、まるでレストランの優良顧客のように聞こえるかもしれないが、細かいことには結構注文も多い割に、経営者としては当然のことながら経費に関しては渋チンで、ここだけの話サポート業務にとっては、必ずしも上客とは言いがたい。

かれこれ、十年以上も Macintosh を使用しているわけだから決して初心者ではないが、かといってオッタッキーなパワーユーザでもない。ただ、同じ傾向のユーザでも細かい部分では多少異なり、独自の使用法を編出して(というほど凝ったものでもないのだが)自分なりの効率を保っている。

極論すれば、ユーザの数だけ使用法はあり、同じ機能でも複数のアプローチが可能な柔軟なコマンド体系こそが Mac OS の美点でもあった。ユーザが一度習得した経験から類推して操作をするという、ある意味手探りの操作でさえそれなりに使えることが、日本語で書かれた参考書も少ない黎明期のマックユーザにとって、一助になっていたことは間違いない。

そのような意味では、直感的に把握できるインターフェイスを実現することは、容易ではないが重要である。彼らにとって、シンプルであることは歓迎されて然るべきモノであるが、それは決して存在する機能を隠されることではない。

前述の機能とデザイン、ただシンプルを以て良しとするなら、多機能はその対局にあるものかもしれない。が、実際そう単純なモノでも無い。機能美という言葉があるように、要するに見せ方次第で意外と両立するのである。

卑近な例を挙げれば、オーディオアンプや自動車のデザインに見受けられる。

アンプの場合は、使用頻度の高いヴォリュームコントロールを大きめにして、その他の機能はフタをして隠してしまうというもの。一歩間違うと、大変チープなモノに成り下がってしまう恐れもあり、あまり高級品では採用されないことが多い。

逆に機能を隠すことなく全面に並べても、良いデザイン(個人的に気に入っているだけだが)も存在する。一例を挙げるなら、もう一方のマッキン、McIntosh のコントロールアンプに見られるような、機能美である。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、コントロールするという本来の機能に対して真っ向からアプローチした結果、数多くのスイッチ類をシンメトリーに配置することにより、機能を隠すことなくかつ美しさを損なわず、といった難題をクリアしていると思う。また、対照的にパワーアンプでは、メータを前面に大きく配置し、最小限のスイッチ類でデザインされたそれは、(当たり前だが)並べても全く違和感のない整合性を実現している。

別の例では、Mark Levinson のプリに見られるような、シンプルな美しさである。必ずしもボタンやスイッチ類が少ないわけでもないのだが、全くごちゃごちゃした感じはなくシンプルに見えるのはなぜだろう。

往年の LNP-2L、最近の(でもないけど) No.26L などにも共通しているのは、安物にありがちな回転するツマミ、縦横のスライドスイッチ、上下動のタンブラースイッチなど操作の異なる種類のスイッチ類を混在させない、というポリシーにあると思う。ま、ここのパワーアンプはブラックパネル一色のプリに比べると結構ケバかったりするんだが、少なくともかつてのプリのデザインは良かったと思うな。

McIntosh と Mark Levinson、 デザインポリシーの全く異なる両者に共通したものといえば、シンメトリーなデザインと最少限の種類で構成されたスイッチ類、統一された表面材質も含めたカラーあたりではあるまいか。(と、おいそれとは手を出しにくい価格、という点でも共通するな。かつては、一台でこいつらを軽く上回る価格の Quadra 950 を販売したこともあるが、ある意味良い時代ではあった。余談である。)

単に数を減らせば、シンプルなデザインになるのは当たり前で、機能上必要な数を網羅してもなおシンプル(に見える)なデザインは存在する。ただ、隠せばいいってもんぢゃないという例でもある。

一方、スマートに隠す方の例として、かつてブラウン管時代のソニープロフィールモニタがある。初代の KX-27HF1 は、オーディオアンプにありがちなフタで隠すというある意味安易な方法であった。しかし、二代目以降の KX-27HV1/KX-29HV3 などでは、ボタン自体を自照式にして、普段はほぼ全ての機能を見えなくし、必要な時だけ表示するというもの。既にリモコン操作が当たり前の、その時代のテクノロジーがあってこそ実現できたデザインである。

そのおかげで、高機能でありながら非常にシンプルでなかなかカッコいいデザインに仕上げられており、我が家のテレビは一時こればっかりだった時期もあるぐらいだ。スピーカはおろかチューナさえも内蔵しておらず、たしか別売りで10万円近い値段だったように記憶している。もちろん本体はその三倍ぐらいだったような、…やれ恐ろしや。これも余談である。

ま、なんでも隠しゃいいってもんでもない例は、最近のキヤノンの複合機を見ればわかる。当然あって然るべき機能まで隠してしまうと却って分かりにくく、使い難いだけのデザイン倒れの好例といえよう。(フタで隠すより、自照式にした方がコスト削減になることが主たる理由である、というところまで見え見えなのも、時代のテクノロジーに依るものである)

自動車の場合は、最近めっきりお目にかからなくなってしまったが、リトラクタブルヘッドライトのような、本来有るべきものがその場所に無いことを逆手にとった、隠すデザインの一手法である。

その歴史は古く、1930年代後半まで遡ることができるが、同年代のご同輩にはやはりコルヴェットを筆頭に60年代アメ車だろう。幼少時には強く憧れたもので、しばらくは川津祐介の乗るあの車はマジで空も飛べると信じていたぐらいだ。(コルヴェット自体、当時の国産車のデザインと比べらたら自動車というより、宇宙船に近かったように思う)

ただ、このあたりになると、その機能自体は既に単なる機能では無くデザインその物になっていたし、リトラクタブルにする理由などどうでも良かったので、あまり良い例とは言えないかもしれない。空力の観点から、全面投影面積を少なくするとか、保安基準の制限からなんとかボンネットをより低くするためなど、御託を並べればは数あれど、要するにカッコイイからであり、ある意味デザインの目指す究極の到達地点と言えなくもない。(ガキの頃には、リンカーン・コンチネンタルや、オールズモービル・トロネードでさえ憧れの対象であった)

が、その後国産車に不便を承知で同形式のヘッドライト装備したモノは、概ねライトをアップした状態のマヌケ面ばかりが目立ち、あまりトキメクものは無かったことから、リトラクタブルヘッドライトなら何でも良いというワケでも無い。2灯式の場合はだいたいカエル顔になるのだが、911 のようなカッコ良さは皆無である。

したがって、機能を犠牲にしたデザインなどさほど価値は無く、その上に格好が良くないとなれば本末転倒も甚だしい、というものだ。

iTunes に話を戻せば、ミニプレーヤにおけるボタンの表示/非表示は、より小さな面積で機能を犠牲にしないという点では、それなりに評価できるものである。というか、ポインタを持っていった時のみ再生ボタン等を表示し、通常は再生中のアルバム情報を表示するというアプローチは、優れたもので理にかなっていると言える。

しかし、対するフルサイズウィンドウ時の iTunes のデザインはイマイチ・イマニ・イマサンである。

ミニプレーヤ同様、検索ウィンドウなど虫眼鏡アイコンで十分だと思うし、フルサイズへ復帰するボタン(小さ過ぎて、これまた押し辛い)は左端にあるにもかかわらず、ミニプレーヤへの切替えボタンは真逆に最右端に配置される。

フルスクリーンへの切替えボタンと同様に、なぜあのような半端な位置に並べる意味はあるのか不明だが、双方とも使い難いだけでなく矛盾に満ちたデザインと言わざるを得ない。(タイトルバーを無くしたいのなら、そこにあったものの移転先ぐらい考えとけよな)

中央上部のさほど広くも無い領域に、無理やりアルバムアートワークを表示する(で、サイドバーから削除する)やり方にも疑問が残る。もちろん、そのアイコンサイズのアートワークをクリックすればフルサイズで表示されるのだが、再生中の楽曲に限られる。再生だけでは無く編集機能も使用している iTunes としては、選択中のアルバムアートの確認ができないという点で、使い勝手が大きく犠牲になっている。

また、最近の OS X のバージョンで推奨されるフルスクリーン表示機能との関連性から、マルチウィンドウ化を避けてきた経緯があるにもかかわらず、前述のアルバムアートワークのフルサイズ表示では、フルスクリーンモード時でさえオーバーラップで表示されてしまう。ビデオ再生時のウィンドウも同様で、フルスクリーンモードで不用意に iTunes の背景をクリックしてしまうと、再生画面は臆面も無くバックグラウンドへ隠れてしまう。

追記:ビデオ再生時のウィンドウは、従来のバージョンでも環境設定内の詳細にある「〜常に手前に表示」を選択することで、バックグラウンドへ隠れてしまうことは回避できた。が、本来常に手前に表示がデフォルトであるべきだし、そのような設定項目自体が必要ないはずだ。iTunes ウィンドウ内での表示などの選択は、メニュー項目から無くなり、再生中に右クリしないとできない。

以前は、表示形式にウィンドウ内も選択できたのだが、新しいバージョンでは別ウィンドウのみの一択しかない。フルスクリーンモードとの兼ね合いを考慮すれば、ウィンドウ内表示の方が妥当だと思うが、あらゆる点においてインターフェイスの基本方針がブレまくりなのも気になる。

いったいアップルとしては、何をどうしたいんだと…。

今回のバージョンアップにより、カラムブラウザの表示機能に掛けられていた制限は、ある程度緩和されたようだが、そもそもなんでそんな意味のない制限を掛ける必要があったのか、理解に苦しむ。

リリースが一ヶ月近く遅れたのも、実装機能の整合性を調整することが理由として考えられるが、基本的なデザインを見るにつけ過渡期の製品にありがちなやっつけ仕事の匂いがあちこちに漂う、今回の iTunes 11。


ちなみに、アクアインターフェイスこそ、スコット・フォーストールの置き土産であり、この呪縛から逃れようとするなら、根底からの改革が必要になるだろう。


まさか、この矛盾に満ちたデザインが、サー・ジョニーのなせる技などと思いたくもないが、デザイン面で腕を振るうなら今こそ、その時であると言いたい。


わお〜、またもや連チャンだぜい。



…ということで、今年いっぱいヒトツよろしく。
2012年12月某日 Hexagon/Okayama, Japan 


http://www.hexagon-tech.com/
[2012.12.14] ユーザ・インターフェイス 〜より転載&加筆修正

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