2015年2月12日木曜日

写真に期待するモノ

標題の通り、雑談である。

一度は却下した写真にも、後から見直せば情状酌量の余地があるモノも皆無ではないし、見方が変われば冤罪に近い評決さえある。

もちろん、その逆に公開したことを後悔する推定無罪みたいな写真もあるわけで、所詮一個人の趣味の写真、地獄の沙汰は閻魔大王の気分次第で大きく左右される。

ぶっちゃけ、その時その時の気紛れによって選んでいるので、さしたる基準があるわけでもないが、たまに在庫処分を口実に放出しておくことで反省材料には事欠かない、というメリットもある。

ここ最近、打率も下がってきたような気がしているが、決してプロではない同好の士達の心惹かれる作品に出会うと、技量が伴わないくせに審査基準だけが無闇に上がってしまうこともあったりする。

だが、下手にハードルを上げて落ち込むよりは、たとえそれが間違っていたとしても、自分の基準を見失わないようにしなければと思う。

たぶん、その方が楽しいような気もする今日この頃。


ここ何度か訪れている、地方ローカル線をネタにした撮影行で気がついたことがある。

事前の、または撮影時の期待と写真の出来に関するもので、いったい自分は何を期待していたのだろうかという考察に基づく疑問であり、いやひょっとすると愚問かもしれないが、いまだ結論には至っていない難問である。

撮影地までの距離が遠くてそう気軽に赴くことが出来ない場所の場合は、どうしても期待が大きくなりがちで、それが結果として写真の出来とのギャップに繋がっているようだ。

そのためには、本来事前の調査とか準備を怠ってはならないのだが、その手の計画性のない者にとっては、永遠に解決できない課題でもある。ただ、あまり構えても撮影行自体が面白くなければ個人的には本末転倒であり、仕事より家庭を重視する、もとい結果よりも過程を重視することを信条としているので、まいっかであることに違いはない。

風景撮影といっても、雄大な大自然を撮りに出掛けるような経済的時間的余裕もないし、第一そんな根性はない。それでいて、地方都市に住む者としては、あまり街中の風景には興味がない。ただ単に、侘・寂的な絵柄を求めるなら、近場の街中にも探せばそれなりにあるだろうが、見慣れた風景から意外な一面を切取れるほどの腕も感性も持ち合わせていない。

たまにやってはみるのだが、せいぜいカメラの解像感に依存したどうでもいい駄作を量産するのがオチで、自己嫌悪に陥るキッカケを作り出すだけである。ただし、そんなアプローチも時々はやっておかないと、なんでこんな使い難いカメラを使っているのか、忘れそうになるというのも事実である。

そんな場合、被写体として選ぶモノに関しては、ただ新しいか旧いかなどは、あまり関係がない。ゴミとして廃棄された、ハードディスクやメイン基板にだって哀愁を感じることもあるぐらいで、旧さの絶対値はそれほど重要ではない。自然の中にある、人工物が醸し出す詫びた景観という観点でいえば、廃虚/廃屋マニアなどにも通じるところはあるのかもしれない。

それ以上に、撮影に赴く過程も楽しもうと思えば、あまり見慣れた街頭をうろついても面白くはない。子供が遠足に出掛ける時に、あまり近場で済まされても機嫌を損ねるのと同様に、目的地までの距離はそこそこ重要になってくる。かといって、行楽地などの人の多く集まる場所など、目的地ばかりを重視するあまり、渋滞や行列で疲労困憊というのはご遠慮申し上げたい。

あまつさえ、ロクに調査もしないで気紛れによる撮影行では、本来目的地などなかったりするのだが、ただ行ってみただけではあまりにもアレなんで、一応被写体として鉄道路線を選択しているに過ぎない。したがって、期待そのものも実は漠然としたものでしかなく、そこには「らしさ」さえも曖昧模糊としたもので、これといった強い願望に基づくわけではない。

鉄道関係の写真を例にとれば、その路線や駅が存在する周りの環境も含めて、目に映ったものから感じた風景が写真に写ってくれることを期待しているようだ。被写体として、街中より田舎を、新幹線より地方ローカル線を選ぶのは、普段の生活の中で、およそ自分には出来ないような不便な暮らしに接することで、忘れていたものを思い出すかもしれないし、己に対する戒めにもなればという思いもあるのだろう。

確かにモノとしての旧さは、それ相応に歴史の重みも感じさせてくれるし、鄙びた駅舎やレトロな趣の景観には惹かれることもある。暴論ではあるが、所詮人間が作ったモノである限り、文化遺産はもちろん、古代遺跡であろうが産業廃棄物であろうが、大局的に見ればそこにはたいして違いはないと考えている。

ここでは、まだ生きているというのが重要な要素で、たとえ利用者が少なくとも生き続けているモノと、すでに廃線や廃駅となって以降、死に続けているモノとの違いは大きい。それは、現時点で全く生活感のない遺跡や廃虚より、実生活の中にありながら廃れ行くモノの儚さに、そこはかとなく惹かれるものがあるからだろう。逆に、レトロが売り物になって観光地化され、見世物になってしまえばホルマリン漬けの標本を見るようで、被写体としての魅力は失われる。

人の一生とは、生まれた瞬間からゆっくりと死んで行く行為に外ならないというのも頷けるところではあり、インベーダやテトリスのように最終的な勝利は存在しないゲームのようでもある。結果としてのスコアよりも、その過程を楽しむことが重要で、決して時間の長さだけが目的ではないはずだ。

工場やプラントに惹かれるのは、そこから生まれるモノを作り出すパワーに、ディーゼルのような内燃機関に惹かれるのは、逆境に耐えながらも自力でなんとかしようという気概に、廃虚/廃屋に惹かれるのは、栄枯盛衰の末路に、それぞれ何かしらの魅力を感じるからだろうと思う。

だが、命あるものはいずれ死に絶え、形あるものはいつかは壊れるのが必然で、自らの力で生きているうちが華であることに違いはない。保護や保存が必要になったら、文字通り遺産でしかない。

結局、自分の中では、在るが侭の風景に見るいまだ生きて存在するモノの侘びしさには勝てないのではないか、と思う。

個人情報に対する認識も変化している昨今、人を写せば何かと面倒なことにも発展しかねない。元来人物を撮るのは苦手であり、別に好んで撮ろうとも思わないので、それ自体何の障害でもない。できることなら、そんな暮らしぶりを風景のみでエンボスのように表現できたら理想的なんだがなあ、と都合の良いことも考えている。

まあ、そんなところが前回のスナップ然とした写真を眺めながら、現時点で思いついた悲惨な結果の言い訳であり、まだまだ練習シリーズは続くのだ、という決意表明でもある。


…ということで、ヒトツよろしく。
2015年02月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2015.02.12] 写真に期待するモノ 〜より転載&加筆修正

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