2014年5月9日金曜日

鉄撮りの練習:其の八(津山線)

歳と共に物覚えが悪くなり、物忘れが酷くなる。

脳がノートだとすると、たぶん若い時は6Bぐらいの濃い鉛筆で、筆圧も強く書いていたが、最近は4Hぐらいの薄い鉛筆で軽く書いているのだ。

元々覚えていないことは、忘れることもできないし、忘れたことさえ覚えていないのだから、思い出せるわけがないのである。

3日前に何を食ったかなどは、既に思い出せないが、30〜40年前のことは何時まで経っても忘れない。

ま、生まれてもいない昔のことなど、若い者には思い出せるわけがないのだから、これは年寄の特権である。

それこそ、昔話をさせたらネタは尽きない。思い込みも酷い上に、記憶も曖昧だからいくらでもホラ話が膨らんで、収拾がつかなくなるぐらいだ。

今回は、先月末に撮った津山線である。

玉柏駅と牧山駅、建部駅の周辺および福渡の手前あたりまで巡ってみた。わずか半日程度だったので、少し中途半端に終わった感もあるが、たいへん懐かしい想い出に浸れた日でもあった。

学生時代には、およそ半年に渡って津山線で岡山〜津山間を通った。

あまり楽しい想い出というわけでもないが、何でも時が経てば懐かしく思える。そのへん人間が適当に出来ているので、嫌なことをいつまでも引きずることがなく、ある意味助かる。

たしか、岡山発 05:56 の津山行きの鈍行で、津山には 07:20 頃の到着なんで中途半端にも程がある時間帯だ。だが、その次の便だと津山着が午前9時を過ぎてしまい、始業に間に合わない。

当時、同級生が一人、途中の備前原から乗って来て一緒に通っていた。早朝の備前原では乗降客もほぼ皆無で、扉も手動で開けないと勝手には開いてくれない。

キハ20 は、旧式なデッキタイプと違って、客席のど真ん中に出入り口が配置されたいた。まだ早朝には肌寒い季節、どこかの扉が開けられたらたちどころに目が覚める、たいへん迷惑な非寒冷地仕様でもある。

そんな駅に停車中、全く扉が開かない日もあり、あいつまたサボリかと思っていたら、次の玉柏駅から乗ってきたりする。

ま、人のことが言えた義理でもなく、自分自身もよく寝過ごしては、親父に車で途中の駅まで送って貰ったことは、何度となくある。

大抵は岡山の隣の法界院だが、ここを逃すと備前原では停車時間が短か過ぎて間に合わない。よって、一気に玉柏まで全力疾走というのが、お約束となっていた。旭川の土手を走る、県道27号線を列車と競争するのだが、ほぼ直線のこの区間なら、気動車ごときに負けることもない。

ぶっちゃけ、そんな時間の国道県道は車など殆ど走っておらず、飛ばし放題な無法地帯に等しい。今と違って長閑な時代、昭和48年頃である。

だが、玉柏を逃すと万事休すである。次の牧山や野々口へは、玉柏方面からのアプローチでは、その経路に紆余曲折がありすぎて、当時の我家のファミリーカー(カローラ20)では、幾ら親父の腕を持ってしても間に合わない。

明らかに、無理があることが分かっている場合は、国道53号線を経由して野々口まで行くしかない。で、実際にそれも一度やったことはあるのだが、いったい何が楽しくて、そんな早朝のレースもどきを展開していたのか、よく覚えていない。

単車では、それなりにブイブイいわせていたアホな高校生だから、ことスピードに関しては一般人よりも敏感で、自動車の運転についても全くの素人ではなかった。そろそろ、自動車免許の取得を視野に入れていた時期でもあり、時々は練習と称して深夜に…、な時代でもある。

そんな早朝ドライブ、親父も満更ではなかったようだ。そうでなければ母親と違ってさほど教育熱心でもなかった親父が、馬鹿息子の遅刻を防ぐだけの為に朝っぱらから文句も言わず、あれほど情熱を燃やしていたとは思えないのである。

だが、母親から聞く限りでは、普段は安全運転に徹していたという印象であり、助手席に乗っていても全く不安はなかったので、よほど運転が上手かったのだろうと想像する。晩年は、タクシーの運チャンもしていた親父だが、体調崩してからは母親専属の運転手になっていた。

もともと、遠距離通学のきっかけとなったのも、前年に単車で事故って長期入院から休学を余儀なくされ、留年した3年目の2年生としての通学である。

一年半ほど住んだ下宿も入院中に引き払い、当面自宅から通学をしながら新たな下宿先を探すというのが、主たる目的であった。

真夏(7月初旬)に入院して、退院したのは既に秋も終わろうとしていた11月頃である。

入院が長かった割に(人間の被害の割に)当の単車の被害は極めて少なく、レバーやクランクケースの交換程度で完全に復活していた。だが、見方によっては意識的に単車の被害が最小になるような当たり方をしたからこそ、人的被害が大きかったと言えなくもない。

退院後、松葉杖もとれないうちからスキーに出掛けたり、明けて春先には九州ツーリングを敢行するなど、自分が親の立場になってみれば、呆れ返って物が言えない、親不孝にも程がある放蕩ぶりである。

母親にしてみれば、復学が許されただけでもめっけものなでくの坊が、親元を離れたらロクなことにならないのは明白であり、自らの監視下に置くことの方がメインであったに違いない。

通い始めた頃、早朝北へ向かう列車に乗っていれば、進行方向右側から朝日が差すので、ゆっくり寝たい時は(たいていそうだが)当然、左側の席に陣取る。ところが、福渡を過ぎて神目までの間には、左側の窓にも朝日が直射するのだ。

もちろん、この時列車は北でなく南に向かって驀進しているわけで、そんな豪華客船クルーズような、行きつ戻りつなルートを通れば2時間かかっても仕方ないわな、と納得出来るのである。

そんな津山線にも慣れてくると、どうせ遅いんだからと諦めて(ダイヤ通りに走っているので当たり前だが)、その間の楽しみを探すようになる。実質1時間半近く往復で3時間以上、ほぼ毎日気動車にのっていれば、いろいろなことにも興味が湧く。

なにせ、当時の気動車キハ20系は、悪名高き非力な機関(DMH17C)を搭載しており、金川から建部に至る上り勾配では、それはもう悲惨なぐらい遅い。思わず、降りて押してやろうかと思うほどだ。

後に、そのスペック(180馬力程度)を知って愕然とした。当時の単車や自動車に興味を持ち始めた高校生にとっては、俄に信じられないパワーウェイトレシオであった。だが、そんな非力なパワーでさえ30t 以上もある車体に、乗客を乗せて登坂できることに感銘を受け、もっと後にディーゼルエンジンに興味を持つきっかけにもなった。

ただ、車体を震わせながらエンジン全開で頑張る気動車(結果どうしようもなく遅いのだが)に乗るのは何となく好きだった。とりたてて必要もないのに、急行砂丘号(キハ28/58)に乗ってみたり、ずっと後になってからではあるが、山陰本線の特急あさしお(キハ80系)などにも、乗ることを目的として出掛けたこともある。

また、車両に関することだけでなく、沿線に対する興味も尽きない。津山線沿線の駅が、中間点にあたる福渡を対称に非常によく似ている点も、その時に気付いたことである。

中間の福渡駅はさておき、法界院に対する津山口、備前原に対する佐良山、玉柏に対する亀甲、牧山に対する小原、野々口に対する誕生寺、金川に対する弓削、建部に対する神目など、その間に存在する各駅の佇まいは非常に似通っていた。

おお、シンメトリーぢゃあ、とばかりに新発見でもしたような気になって、何人かの友人にも話したことがある。だが、概ね冷たい反応で、ふ〜んそんなもんかね程度にしか、反応は帰ってこなかった。

そんなことを思いついたきっかけは、通学途中のある時、寝ぼけて上りの津山行きに乗っているにも関わらず、帰宅途中で岡山に向かっているかのような錯覚を起こしたことが、発端となっている。

居眠りをしながら、たまに目を覚ましては、今どの辺かいなと確認するのであるが、上記のようなシンメトリー状態だから、福渡を過ぎた辺りから行き先が怪しくなるのも不思議ではない。

津山駅が岡山駅西口(当時はこちらも良く似ていたし、瓜二つといっても過言ではない)と思い込んで、改札近くまで気がつかなかった。正確には、定期を見せて改札を通過して、駅前の町並みを見て初めて目が覚めたのである。

もちろん、寝たまま改札を通るぐらいの技は、当時の早朝汽車通連中は当たり前に習得していたことは、言うまでもない。

そんな津山線での通学も、半年も続けた頃には飽きてくる。程なく、新たな下宿先を見つけては、母親の反対を押し切って下宿生活を再開させた。

当時、我が校は単車はもちろん、車通学でさえ禁じられていない放任校であったが、自宅から単車通学など両親が許可するわけもない。下宿先に持込むことさえ固く禁じられて、まるで人質を捕られたような状態である。

以前は、月に一度でさえ実家に帰ることはなかったが、最愛の単車が抑留状態では、毎週帰らざるをえない。従って、これが唯一下宿を許される最終条件として母親から提示されたのは、宜なるかなである。

週末、実家に帰る時はたまに奮発して、急行砂丘号に乗ることもあったが、大抵はまだ通用期間が残っていた、通学定期で乗れる鈍行である。急行の最短が確か1時間9分で、最遅の鈍行は行き違いの待ち合わせなど入れて、なんと2時間近くかかるものさえあった。

山陽新幹線が、新大阪まで開通して間もない頃だが、岡山市民にとって津山は大阪より遙かに遠かった時代でもある。

今から思えば、たった半年ほどの短い期間であったが、いろんな想い出が詰まった津山線である。いずれ時間が許せば、より津山方面に向けて、撮影に赴くこともあるやもしれない。

そんな、太古の想い出に浸りながら訪れた、玉柏と牧山駅でした。



…ということで、ヒトツよろしく。

2014年05月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2014.05.09] 鉄撮りの練習:其の八 〜より転載&加筆修正
なお、本家には余談と写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

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