2014年7月17日木曜日

写真の表現に関する戯言〜ちょっと寄り道

現代人は、情報化社会に生きる人種である。

とりあえず、出掛けちまえばなんとかなるだろうと、時刻表も持たない iPhone 頼りの、古来の乗り鉄から見たら言語道断な姿勢である。

日頃より公共交通機関に乗り慣れていない身で、迷子にでもなって乗り遅れたりでは格好がつかない。

いや、迷子の段階ですでに格好はついていないのだが、岡山駅周辺も昔と違って大きく変貌を遂げている。何かと道を迷わせ、人心を惑わせる要素も増えており、そんな怪異に出会わないとも限るまい。

ま、そのあたりの事情は次回以降に譲り、ここから大きく道に迷うわけだ。

もともと、スーパーいなばと因美線の本文として書き始めたのだが、ちょっと寄り道である。いや、これはもう脱線転覆といった方が相応しいかもしれない。

人心を惑わせる要素といえば、例の某変態カメラに関する情報もそれにあたるだろう。あまりサイト内で製品名を列挙しまくっていては、検索で訪れた方々に誤った情報を植え付けかねない。

したがって、自分自身が怪異とならぬよう、今後ぶっちゃけた話の場合は、極力製品名は伏せることにした。

で、例の新製品、そこに在るはずのモノが写っていない、無いはずのモノが写っているなどと、リアリティ重視の観点からどうよ的な発言をした。

ここでいうリアリティは、嘘偽りでないことを表すリアルとは、まったく別物であるという考え方に基づいている。

リアリティの対義語は、虚構または理想ということになっているが、まさに写真などは虚構そのものであり、写真に対して真実を写し出すことを期待するのは、あくまでも理想に過ぎない。

仮想現実という、まことに都合の良い矛盾した言葉もあるが、ようするに、なんちゃってリアル?みたいなものである。

このような曖昧な側面を受入れないと、写真に関する論議は成り立たない。

写真を見た時、リアリティの感じ方は各々の経験に基づく主観に依るところが大きい。だが、加工されたデジタル写真の罠に嵌まらないためにも、ある程度の共通認識が必要になる。

ぶっちゃけ、商品券と偽札の区別がつかないようでは、日常生活にも支障をきたすのだが、両者の間にある明確な違いは、それが合法か非合法か程度の差でしかない。

それを認識するのは、各々の経験に基づく主観だけでは到底成り立たず、そこには必ず共通認識が存在する。

もともと立体の動画であるはずの現実、それを瞬間的に切り撮ってあたかも現実性を持たせるものが写真であると仮定した場合、そこには少なからず虚構が生じる。

所詮、2次元平面に描写された写真などに、現実の空間を求めても不毛である。それが、自然に見えるかどうかは人それぞれだが、解像感や立体感、奥行き感などおよそ感などという文字が付くものに、絶対基準はない。

したがって、それが自然に見えた時点で、すでに不自然であることを忘れてはならない。

市街地の住宅などを作例とした写真の場合、肉眼で見えているものは、たとえ現実であっても人が短時間に認識できるものは意外と少ない。

しかし、写真に撮ることによって、その瞬間の膨大ともいえる情報量は後から見直すという行為においては、コンピュータの外部記憶装置のような役割も果たす。

撮影時にファインダから見える情報だけしか記録できなかったら、そのカメラは間違いなくドブに放り込まれるほど、デジタルカメラは進化している。

だが、仮に遠方にある住宅フェンス(よくある縦格子のアレね)などを例にとれば、距離が離れることによって一本一本は次第に解像されなくなる。

終いには、一枚の板状のものとしてぼんやりとした、まるで金網のような表現になることが多く、網戸との区別はつかない。

ここで、高画素&高解像度カメラの登場だ。高画素&高解像度が、必ずしも高画質につながらないのは、発展途上であるデジカメのジレンマである。

さすがに拡大すれば格子の数が数えられるほどに解像している点は、生真面目で理論通りである。だが、少し縮小すると、金網を経てどんどん網戸になって行く。これも杓子定規に捉えれば、間違っているわけではないし、そういうものだという共通認識もある。

だが、別々のコップに入った珈琲とミルク、いくら遠くてもカフェオレには見えないだろう、とは某掲示板で見かけた上手いたとえだが、ある意味どちらも正しく、どちらも間違いなのかもしれない。

今現在、気に入って使っている某社のカメラは、こいうった表現はしてくれない。あくまでも、格子状のフェンスに対しては、それが自体がフェンスであろうとするかのような表現をする。

そのためには、多少の嘘もつくし事実とは異なる表現も厭わず、まことに見事な虚像をデッチ上げてしまう。格子の本数など、どうせ見えないだろうと適当に端折ってしまうこともあるのだ。

それは、偽解像と呼ばれセンサ由来の問題点として、他の宗派からは忌み嫌われる要因にもなっている。ナイキスト周波数というらしいが、詳しいことが知りたければ、勝手にググって欲しい。要するに、標本化定理に基づく、再現の限界を越えると怪異が現われるのである。

この怪異、ゴーストとか幽霊とか偽物とか、言い回しはなんでも良いのだが、決して補間と呼んではならない。それは、フォビ厨の間では禁句となっている。もちろん、写真の正しさという点においては全くの問題児であり、客観的に見れば胡散臭さも満開だ。

ところが、明らかに見る者が認識できそうなところは、手を抜かないという真面目で勤勉な一面も持ち合わせる。

路面の状況や道端の雑草、鉄板の汚れや錆など、これでもかというぐらいに細かく描写する。嘘と本当を上手くミックスして、フェンスの虚像ばかりが目立たないようバランスを取るのだ。

それが、如何にもデッチ上げの塗り絵ではないところが厄介で、嘘と分かっていても信じたくなる。バイキュービック法とかニアレストネイバー法とか、そんな訳の分からない法律などに縛られることなく、心を無にすることも必要だ。

その写真を見たとき、経験に基づく主観を以て見たとき、それが多少縮小されようが、紛う事無き格子状のフェンスであることが認識できる。

そして、それを写真のリアリティと感じるのである。

それは建物だけでなく、道路、電柱、鉄塔、岸壁、海、波、岩、雲、山々、遠景の樹木など多岐にわたり、まるで上手い画家のようでもある。

このあたりは例の新製品、解像度は高いが、まことにヘタクソだ。

正しくあろうとして、見たままを再現しようとして、結果嘘っぽいという悲しい現実がそこにある。

同じメーカが同じポリシーで作り上げた結果だとすれば、以前のものは偶然の産物であった可能性もある。だが、問題の本質はそこではない。すでに販売されている製品なんだから、開発の背景に何があったかなど、後書きに過ぎない。

高画素&高解像度のカメラでは、格子の本数も正確に数えられるものさえある。だが、解像度チャートなどでは、ここまでしか評価できない。その写真を見た時に知りたかったのは、決して格子の数ではないはずだ。

もちろん主観が異なれば、重要なのはそれが何かではなく、格子の数であるという意見も少なからずある。他のメーカの方式の異なる機種には、リアリティなど多少犠牲にしても、正しくあろうとするカメラも当然存在する。

それも、選択肢のひとつになっていることは、たぶん喜ぶべきことだろう。

しかし、量産品であるかぎり、その選択肢のひとつが消えてしまう将来を危惧するからこそ、これほど批判的な意見も溢れているのだろうと思う。

中には、重箱の隅という隅を徹底的につついたようなものも存在する。それを大局的でないとして、逆に批判の対象となっているケースもある。

だが、毛髪の末端や服の繊維など、ある写真ではさほど重要には見えない重箱の隅も、風景写真の遠景にとっては、与える影響も決して少なくない。

その取るに足らない細かい情報こそが、微妙な隠し味になり、例の怪異現象の要素になっている可能性もあるからだ。

かつて、OS X が Mac OS と呼ばれていた時代には、アイコンも現在のように馬鹿デカくなかった。

せいぜい、32×32ドットで構成されたお粗末なもので、現在のデジカメの画素数とは比較にならないほどの、細やかな絵に過ぎない。

いや、一般人から見れば、そのドット数で絵を描くなどということさえ、思いつきもしないサイズである。だが、デスクトップに散らばるそのアイコン達は、それぞれに工夫が凝らされ、ひと目で分かる何かを表現していた。

もっと昔は、白黒2値でしかなかったが、それでもそれなりの区別はついていた。それがいつしか、サイズはそのままに色が付き始めた頃から、俄にアートの様相を呈してきたのである。まさにゲージツである。

ユーザレベルでも、ドットによる描画でアイコンを作ることもできたが、なかなかその筋の専門家(多くの個人も含む)が作るようなモノはできない。

その出来の良いアイコンから、少しでも参考にならぬかと、専用ツールまで購入して分析を試みたこともある。初めて拡大して驚いたのは、標準サイズで想像していたモノとは、ずいぶんとかけ離れたように見えるそのドット構成である。

なるほどなるほど、ここをこういうふうにすれば、こうみえるわけね〜、と感心するばかりで、結局自作で実用になるものはついぞ出来ていない。

一時は、写真や絵そのものを貼付ければ、適当にデッチ上げてはくれまいかと期待してやってみたが、どうもドット単位の手作り作品に比べて、数段落ちる出来にしかならない。

今ならアイコンサイズも大きくなって、それなりの表現も可能になったが、さすがに 32×32ドットの時代は、そんな手抜きを容認してくれるほどの情報量がないのである。

要は、いかに限られた範囲でそれらしく見えるようにドットを端折るかというテクニックが必要になる。

黎明期のマックでは、書体(フォント)にもそんな、悪く言えば妥協の産物が存在した。なにせ、9インチビットマップのモノクロディスプレイに漢字を表示しようというのだから、その苦労は並大抵ではなかったろう。

最初の日本語 OS である漢字 Talk では、メニューバーに表示された大阪フォントの「書体」メニューの書は、横線の数が足りていなかった。

しかし、作成者の気持ちを察することはできるし、人間には想像力という強力な、適応性に欠かせない能力も備わっている。

当時のマックユーザの間では、それを心の目で本来の漢字に置き換える特殊技能が求められた。第一水準でさえそうなのだから、第二水準など夢のまた夢の時代である。

お気に入りのカメラが写しだす、その写真を見るにつけ、この芸術的なアイコンやフォントのことを思い出さずにはいられないのだ。

次回こそは、「スーパーいなばと因美線」に戻れる、…と思いたい。



…ということで、ヒトツよろしく。
2014年07月某日 Hexagon/Okayama, Japan


http://www.hexagon-tech.com/
[2014.07.17] 写真の表現に関する戯言〜ちょっと寄り道 〜より転載&加筆修正

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