2013年9月17日火曜日

写真の嘘は、真(まこと)から出たのか?

嘘から出たまことの逆だな、これは。

標題からして雑談の予感がするが、水平レベルに関して行き詰まったからという、姑息な考えなどでは決してない。

で、私はウソつきですと宣言した途端に、パラドックスは発生する。

営業がこの言葉を使ったのなら、そのまま素直に信じて何も問題はない。だが、「私はウソは申しません」と同義語であり、それは歴史上何度も政治家達によって証明されている。

情報過多な現代においては、自分が信じたいと思う嘘を選択するしか、残された道は無いのである。

原則として、写真は嘘つきである。だいたいにおいて、そんなものを信じたらバカを見るというのが、世間一般の通り相場になっている。

ただ、フォトショで加工した写真もどきは、厳密には写真ではなくただのアイコラであり、それはもう絵ですらない。なんらかの意図があるなら、詐欺の一種であるといっても過言ではない。

ここで言う写真の嘘とは、熟練した撮影者が一般的なテクニックとして意識的、または無意識のうちに実践している技法のことである。

同じものを写しても、その角度や光の当たり方で印象は異なるし、画面に何を入れて何を入れないか、画面から余計なモノを整理して、どこにフォーカスするか、など一瞬で判断するのは難しい。

これは、エジプトでピラミッドやスフィンクスを撮影する時、ケンタッキー・スフィンクス店の看板が写らないように配慮するとか、決してそんな下世話な話ではない。

パルテノン神殿に組まれた足場や、クレーンとの2ショットは、それを見たいという依頼でもないかぎり撮影されることはないが、ありのままを写せばそのような写真も存在することは確かだ。

カメラの視点をどうコントロールするかは撮影者に委ねられているが、撮影のために被写体やその周りの環境までをコントロールする権限はない。

初めて渓流写真を撮りに川へ入った頃、撮影ポジションを検討しフレーミングを決めていざ撮影となって、岩場のコケにくっきりと自分の靴後が付いていたのを見た時、その間抜けぶりに脱力したものである。

線路の周りの草刈りでもすれば、マシな撮影スポットになりそうな場所はたしかにある。くそ〜、あの枝さえ邪魔しなければいい絵になるんだが…、除草剤でも撒いてやるか、いっそ火でも放つかなどという過激な考えが頭をよぎることもあるが(オイオイ)、そんな写真を見たいと思うかを問えば、答えは明白である。

自分で撮った写真を眺めていて、どうしてこうもくだらねえモノばかりなのだろうと思う。

鉄塔や電柱、電線は言うに及ばず、川の中の空き缶やゴミの類い、被写体に集中すればするほど見落として後悔することは多い。ただ、それさえ無ければ良い写真になったかと言えば、それはまた別の問題である。

撮影者の目に入っていないものまで写し出す能力は、また別の喜びにもつながるので、機材の性能向上は大歓迎である。写真の解像度が上がるほど、この傾向は強くなり、撮影者にはより注意力が必要となる。

意識的にフレームアウトすれば、もっと別の写真になったはずのモノは少なくない。が、目に映ったものと撮影するものを、その場で切り離して考えることは、そう簡単ではない。

普段、嘘に塗れた生活に身を置いていると、せめて写真では嘘をつきたくないという、自浄本能みたいなものが働いてしまうことが遠因となっているのかもしれない。(これも嘘だけど)

原因は、はっきりしている。写真技法について、一度も真面目に取り組んだことなどないからである。カメラ好きが高じてモノのついでに写真にも興味をもった、ありがちな輩の典型である。

たまに、これではイカンと入門者向けのサイトを閲覧したり、時には実践もしてみるのだが、結局どこかで見たような写真にしかならず、まるで面白くはない。

絵描きや詩人の素養に欠ける者が撮る写真というのは、いくら技法を駆使しても最低レベルを少し引き上げるだけで、そこからなかなか抜け出せない。

ブレッソンや土門拳の写真を見ても、そんなものが理解できるレベルには全く無いし、小学生の頃ピカソを見てあれならオレにも描ける、と感じたのに似ている。(で、いまでも思っていたりする)

写真に主張が無いからダメなんだ、という至極真当な講釈をかまされたこともあるが、無いものを出せと言われてもなあ、…。

風景写真というのは、その場に行かなければ撮れない。場所によっては行くこと自体が至難の場合もあるが、行ける範囲でもその時の気分によって見え方は変わる。

だが、それが写真に反映されたり、その時に感じたままで撮影されることは滅多に無い。意識的に何かをプラスまたはマイナスしないと、後から見ても何でこんなものを撮ったんだろう、という疑問にしかならない。

せいぜい後付けの理由を探しだして、撮り合えずこういうことにしておこうと、かたずけてしまうのである。たとえ、自画自賛でもまずは自分が感動しないと、人は騙せても感動させることはなど到底無理である。

それでも、フリッカーなどで公開できる現在では、撮影現場を知らない他人の目に触れる場所に晒すこともできるし、フェイスブックなんかで、いいねと言われりゃつい調子に乗ることもある。

しかしどこかで、ホントはこうぢゃないんだけどね、ヘッヘッヘと恐縮したり苦笑いをしている自分がいる。

ま、いくら他人を感動させてもそれが金になる立場ではないので、マジで考えたこともないが、自分を感動させたいという程度のことは、常に考えている。

ソフトを駆使して邪魔者は全て消し去ることも、あり得ないツーショットをでっち上げることさえ可能な、デジタル写真の時代である。だが、工事現場の完成予想図を作成することを趣味として、写真を撮っているわけではない。

いくら技法を駆使して絵作りをしたところで、生の現場を見て知っている自分を騙すことができない限り、たいして意味はないのである。

撮影した場所のことや、その時の状況さえ思い出せなくなるほど耄碌したら、別の楽しみに変わるかもしれないが、そんな先のことまで考えが及ぶ思考回路は持ち合わせていない。

そこに在るものが当たり前に写っている写真、などとというなにか含蓄のありそうな言葉に惹かれて、そうだ意識的に嘘をつく必要もあるまいと、やってみるのだが、う〜ん、これはもう…。

文字通り真実を写すものが写真であるはずだが、せいぜいありきたりの事実程度までしか写し出せていないことが問題なのか、などと哲学的なことを考えているわけではない。

おそらく、これは決して嘘ではないが本当でもない、という微妙なさじ加減が重要なのだろうと思う。それには、基本的なものの見方というか、普段の視点を大きく変えないと、いつまでたっても絵的には面白くならない気がする。

ただ、楽しみでやってることに、難行苦行を持込みたくはない。面倒なことも避けたいし、できればあまり金もかけたくない。いつのまにか、勝手に腕が上達していれば嬉しいなあと、都合の良いことを考えているのがたぶん一番の問題だろう。

となれば、普段の生活態度を改めて、写真の中でだけ嘘がつける人間になるしかないのである。(わ〜、やっぱ百パー雑談だ。)


…ということで、ヒトツよろしく。
2013年09月某日 Hexagon/Okayama, Japan

http://www.hexagon-tech.com/
[2013.09.17] 写真の嘘は、真(まこと)から出たのか? 〜より転載&加筆修正
なお、本家には写真も多数貼ってあるので、こちらもヒトツよろしく

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